そんなに忙しくはないのに、月末というだけでプレッシャーを感じる癖がついたようだ。




2002ソスN5ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2852002

 来て立ちて汗しづまりぬ画の女

                           深見けん二

語は「汗」で夏。「画の女」を、最初は、自分がモデルになった画の出展されている展覧会を見に来た女性かなと思ったのだが、そうすると「来て立ちて」の「立ちて」が不自然だ。あらためて、当たり前の立ち姿を紹介する必要はないからである。そうではなくて、美術教室のモデルとして来た女性だろう。定刻ギリギリにやって来て、一息つく時間もなく、ハンカチで汗を押さえるようにしながら、そのまま描き手の前に立った。そして、早速ポーズを決めるや、すうっと汗が「しずま」ったというのである。役者などでもそうだが、本番で汗をかくような者は失格だ。このモデルも、さすがにプロならではの自覚と緊張感とをそなえていたわけで、作者は大いに感心している。モデルがぴしっとすれば、教室全体に心地よい緊張感がみなぎってくる……。モデルを前にして画を描いたことはないけれど、モデルはたとえば音楽のコンダクター的な役割を担う存在なのではあるまいか。少しでも気を抜けば、たちまち描き手に伝染してしまうのだろう。しかるがゆえに、モデルの価値は容貌容姿などにはさして依存していない。価値は、描きやすい雰囲気をリードできるかどうかにかかっているのだと思う。画を描かれるみなさま、いかがでしょうか。『星辰』(1982)所収。(清水哲男)


May 2752002

 麦秋や江戸へ江戸へと象を曳き

                           高山れおな

象
語は「麦秋(ばくしゅう)」で夏。見渡すかぎりに黄色く稔った麥畑のなかを、こともあろうに象を歩かせるという発想がユニークで愉快だ。どんなふうに見えるのだろう。なんだかワクワクする。が、掲句は、空想句ではなく史実にもとづいた想像句だ。実際に、江戸期にこういう情景があった。以下は、長崎県の「長崎文化百選」よりの引用。「(象が)はっきり初渡来として歓迎されたのは、亨保十三年(1728年)将軍吉宗の時代に長崎に渡来したときである(松浦直治)という。 六月七日にオランダ船で長崎に着いた象は、雄と雌の二頭。雌の一頭は病気で死んだが。残った七歳の雄は将軍吉宗に献上のため翌十四年三月十六日長崎を出発。十四人の飼育係に交代で見守られながら、江戸まで三百里(約1200km)をノッシノッシと行進する。南蛮渡来のこの珍獣を一目見ようと、沿道は大変な騒ぎ。ずっと後世のパンダブームのような大フィーバーである。なにしろ巨体だから、橋も補強しなければならない。大井川はイカダを組んで渡す、といったありさま。そのころはもう江戸では象の写生図が早打ち飛脚で到着して一枚絵に刷られ、象の記事の載ったかわら版は、いくら刷っても売り切れ『馴象編』『象志』など象百科のような出版物は十数種に上ったという。 五月二十五日に江戸に着いた象は、浜御殿の象舎に入った。翌々日江戸城へ引き入れられ、吉宗は諸大名とともに象を見物した」。しかしこの象は、やがて栄養失調でやせ細り死んでしまったという。あまりの大食ぶりに、さすがの江戸幕府も持て余したようだ。図版は長崎古版画(長崎美術館蔵)より。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


May 2652002

 少女らは小鳥のごとし更衣

                           大井戸辿

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。この風習もかなりすたれてきたが、学校や企業等によっては、日を定めていっせいに制服を夏のものに着替える。学校の制服姿は人数も多いので目立つから、否応なく新しい季節の到来を感じさせられることになる。さて、掲句には類句累々。さしたる発見はなけれども、しかし、なんだかほほ笑ましい。そしてちょっぴり哀しいのは、あえて「少女らは小鳥のごとし」と凡庸な比喩を使った作者と「少女ら」との距離と時間の遠さによる。作者が少年であれば、決してこのように詠むことはないだろう。男として年輪を重ねてきた人でなければ、こんなバカな(失礼)比喩は使えない。若い読者には奇異に受け止められるかもしれないが、この句をじいっと見つめていると、浮かび上がってくるのは作者の老境である。句を裏返せば「小鳥らは少女のごとし」であっても、いっこうに差し支えはないのだ。それほどに他人事というか、もはや少女との交流など考えも及ばない年齢の諦観みたいな心境がじわりと露出してくる。小鳥が本質的には無縁なように少女とも無縁で、もはや両者を等価にしか捉えられない哀しさよ。作者の本意はどうであれ、この平々凡々とした比喩が告げているのは、そういうことなのだと思われた。いま反射的に思い出したのは、その昔に仕事の相棒だった女性の、私には衝撃的だった少女観。「小学校高学年から中学くらいの女の子が、いちばん汚らしく見えるのよね」。となれば、掲句に賛同できる女性は少ないかもしれない。少なくとも一般的に可愛らしいとしてよい「小鳥」の比喩には、我慢がならないかもしれない。「俳句」(2002年6月号)所載。(清水哲男)




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