原宿にてキャスター(煙草)ポエムズコンテストの公開審査会に出席。一年ぶりの原宿。




2002N526句(前日までの二句を含む)

May 2652002

 少女らは小鳥のごとし更衣

                           大井戸辿

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。この風習もかなりすたれてきたが、学校や企業等によっては、日を定めていっせいに制服を夏のものに着替える。学校の制服姿は人数も多いので目立つから、否応なく新しい季節の到来を感じさせられることになる。さて、掲句には類句累々。さしたる発見はなけれども、しかし、なんだかほほ笑ましい。そしてちょっぴり哀しいのは、あえて「少女らは小鳥のごとし」と凡庸な比喩を使った作者と「少女ら」との距離と時間の遠さによる。作者が少年であれば、決してこのように詠むことはないだろう。男として年輪を重ねてきた人でなければ、こんなバカな(失礼)比喩は使えない。若い読者には奇異に受け止められるかもしれないが、この句をじいっと見つめていると、浮かび上がってくるのは作者の老境である。句を裏返せば「小鳥らは少女のごとし」であっても、いっこうに差し支えはないのだ。それほどに他人事というか、もはや少女との交流など考えも及ばない年齢の諦観みたいな心境がじわりと露出してくる。小鳥が本質的には無縁なように少女とも無縁で、もはや両者を等価にしか捉えられない哀しさよ。作者の本意はどうであれ、この平々凡々とした比喩が告げているのは、そういうことなのだと思われた。いま反射的に思い出したのは、その昔に仕事の相棒だった女性の、私には衝撃的だった少女観。「小学校高学年から中学くらいの女の子が、いちばん汚らしく見えるのよね」。となれば、掲句に賛同できる女性は少ないかもしれない。少なくとも一般的に可愛らしいとしてよい「小鳥」の比喩には、我慢がならないかもしれない。「俳句」(2002年6月号)所載。(清水哲男)


May 2552002

 簾巻きて柱細りて立ちにけり

                           星野立子

語は「簾(すだれ)」で夏。夕刻になって、涼しい風を入れるために簾を巻き上げた。と、普段は気にも止めていなかったのだが、意外なほどに我が家の柱の細いことに気づかされたのである。簾の平面と柱の直線の切り替わりによって、以前より細くなったように見えた。もっと言えば、まるで「柱」みずからが、昼の間に我と我が身を細らせたかのようにすら見えてくる。こんなに細かったのか。あらためて、つくづくと柱を見つめてしまう……。「柱の細く」ではなく「柱細りて」の動的な表現が、作者の錯覚のありようを見事に捉えており、「巻きて」「細りて」と「て」をたたみかけた手法も効果的だ。日常些事に取材して、これだけのことが書ける作者の才能には、それこそあらためて脱帽させられた。俳句っていいなあと感じるのは、こういう句を読んだときだ。簾といえば、篠原梵に「夕簾捲くはたのしきことの一つ」があるが、私も少年時代には楽しみだった。巻き上げても両端がちゃんと揃わないと気がすまず、ていねいに慎重にきっちりと巻いていく。少しでも不揃いだと、もう一度やり直す。格別に整理整頓が好きだったわけではなく、単なる凝り性がたまたま簾巻きにあらわれたのだろう。いまでも乱暴に巻き上げられた簾を見かけると、直したくなる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


May 2452002

 子探しの声の遠ゆくかたつむり

                           上田五千石

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。夕暮れ近く、遊びに出かけたまま、なかなか戻ってこない子供を母親が探している。どこのお宅に入りこんで遊んでいるのか。心当たりの方向に「○○ちゃーん、ゴハンですよー」と声をかけて歩いている。その声も、だんだん遠ざかっていく。「遠ゆく」という言葉は初見だが、意味はこれでよいだろう。作者の造語だろうか。あるいは、どこかの方言かもしれない。開け放った作者の窓辺には、我関せず焉といった風情で「かたつむり」がじっと眠っている。母親の「子探し」といってもこの時間には毎度のことだから、何も心配するほどのことでもない。そんな「世はすべて事もなし」の好日感を、さらっとスケッチした句だ。強いて理屈をこねれば、かたつむりはいつも家を背負って歩いているので、子探しをすることもないから、人間よりもよほど気楽。比べて、人間の暮らしはあれこれと厄介なことが多い。ここらあたりのことを対比していると読めないこともないけれど、私はさらっと読んでおく。そのほうが、夏の夕暮れの情景を気持ちよく受け止められる。最近では、こうした情景も見られなくなってしまった。表から大声で呼んでも聞こえない構造の家が増えてきたし、電話も普及している。それに第一、当の子供が遊んで歩かなくなってしまったからだ。掲句は、いまから三十年ほど前に詠まれたもの。『森林』(1978)所収。(清水哲男)




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