武蔵野市では明日市制施行55周年記念ラグビーフェスティバルを開催。良いセンスだね。




2002N525句(前日までの二句を含む)

May 2552002

 簾巻きて柱細りて立ちにけり

                           星野立子

語は「簾(すだれ)」で夏。夕刻になって、涼しい風を入れるために簾を巻き上げた。と、普段は気にも止めていなかったのだが、意外なほどに我が家の柱の細いことに気づかされたのである。簾の平面と柱の直線の切り替わりによって、以前より細くなったように見えた。もっと言えば、まるで「柱」みずからが、昼の間に我と我が身を細らせたかのようにすら見えてくる。こんなに細かったのか。あらためて、つくづくと柱を見つめてしまう……。「柱の細く」ではなく「柱細りて」の動的な表現が、作者の錯覚のありようを見事に捉えており、「巻きて」「細りて」と「て」をたたみかけた手法も効果的だ。日常些事に取材して、これだけのことが書ける作者の才能には、それこそあらためて脱帽させられた。俳句っていいなあと感じるのは、こういう句を読んだときだ。簾といえば、篠原梵に「夕簾捲くはたのしきことの一つ」があるが、私も少年時代には楽しみだった。巻き上げても両端がちゃんと揃わないと気がすまず、ていねいに慎重にきっちりと巻いていく。少しでも不揃いだと、もう一度やり直す。格別に整理整頓が好きだったわけではなく、単なる凝り性がたまたま簾巻きにあらわれたのだろう。いまでも乱暴に巻き上げられた簾を見かけると、直したくなる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


May 2452002

 子探しの声の遠ゆくかたつむり

                           上田五千石

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。夕暮れ近く、遊びに出かけたまま、なかなか戻ってこない子供を母親が探している。どこのお宅に入りこんで遊んでいるのか。心当たりの方向に「○○ちゃーん、ゴハンですよー」と声をかけて歩いている。その声も、だんだん遠ざかっていく。「遠ゆく」という言葉は初見だが、意味はこれでよいだろう。作者の造語だろうか。あるいは、どこかの方言かもしれない。開け放った作者の窓辺には、我関せず焉といった風情で「かたつむり」がじっと眠っている。母親の「子探し」といってもこの時間には毎度のことだから、何も心配するほどのことでもない。そんな「世はすべて事もなし」の好日感を、さらっとスケッチした句だ。強いて理屈をこねれば、かたつむりはいつも家を背負って歩いているので、子探しをすることもないから、人間よりもよほど気楽。比べて、人間の暮らしはあれこれと厄介なことが多い。ここらあたりのことを対比していると読めないこともないけれど、私はさらっと読んでおく。そのほうが、夏の夕暮れの情景を気持ちよく受け止められる。最近では、こうした情景も見られなくなってしまった。表から大声で呼んでも聞こえない構造の家が増えてきたし、電話も普及している。それに第一、当の子供が遊んで歩かなくなってしまったからだ。掲句は、いまから三十年ほど前に詠まれたもの。『森林』(1978)所収。(清水哲男)


May 2352002

 明易き絶滅鳥類図鑑かな

                           矢島渚男

オオウミガラス
語は「明易し(あけやすし)」で夏。これから夏至にむかって、どんどん夜明けが早くなっていく。伴って、鳥たちの目覚めも早く、住宅街のわが家の周辺でも、最近では五時前くらいから鳴くようになった。カラスがいちばん早く、あとから名前も知らない鳥たちが鳴き交わすので、鳴き声に起こされることもある。作者は、長野県丸子町在住。私などのところよりも、よほど多くの鳴き声が聞こえるだろう。さて、そんな鳥たちに早起きさせられた作者は『絶滅鳥類図鑑』を見ているのだが、鳥の鳴き声を聞いたので図鑑を手にしたわけではないだろう。むしろ、昨夜寝る前にめくっていた図鑑が、そのまま机上に残されていたと解釈しておきたい。就寝前に、絶滅した鳥たちの運命に思いをめぐらした余韻がまだ残っているなかで、現実に生きている鳥たちの元気な鳴き声と出会い、複雑な感慨にとらわれているのだ。あらためて図鑑の表紙を凝視している作者には、昨夜はむしろ絶滅した鳥たちのほうが近しかった。それが寝覚めの半覚醒状態のなかで、徐々に現実に引き戻されていく過程を書いた句だと読める。引用した図は、19世紀イギリスの剥製師ジョン・グールドが描いた「オオウミガラス」。北大西洋に住んでいた海鳥だが、人間が食べ尽くして絶滅したという。『梟のうた』(1995・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




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