Klez付のメールが連日数通。いいかげんにしろと言いたいが、文句の持って行き先が無い。




2002ソスN5ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2152002

 わが死後の乗換駅の潦

                           鈴木六林男

季句。「潦(にわたずみ)」は、雨が降ったりして地上にたまった水。または、あふれ流れる水。水たまりのこと。季語ではないが、これからの長雨の季節を思わせる。郊外の駅だろう。通勤の途次、乗り換えの電車を待っている。構内のあちこちに、水たまりができている。すでに見慣れた光景でしかない。いつも、同じところにできる同じ形の水たまり……。普段は何気なく見過ごしているというか、さして気にも止めない変哲もない水たまりだけれど、ふと「わが死後」にもここに同じように変哲もなくありつづけるのだろうと思った。そんな思いにかられると、何の変哲もない潦がにわかに生気を帯びて新鮮なそれに見えてくる。あらためて、まじまじと見つめててしまうのだ。たとえばこれが山河に対してだったら、誰しもが自分の死後にもありつづけるのは当たり前だと感じるけれど、作者は生成消滅を繰り返す水たまりにこそ「永遠」を感じている。ここが句のポイントで、悠久の時間の流れのなかで考えれば、つまりは山河であれ何であれ、自然は水たまりのように生成消滅を繰り返すのが当たり前なのだ。ただ水たまりのほうが、人間の時間の間尺に基準を合わせると、わかりやすく短時間で生まれたり消えたりしているに過ぎない。この認識から、何を思うかは読者の自由。ルーティン化した通勤時間にも、ふと日常感覚から外れた何かを感じたり発見している人はたくさんいるだろう。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


May 2052002

 全身の色揚げ了り蛇の衣

                           アーサー・ビナード

語は「蛇の衣(へびのきぬ)」で夏。蛇の抜け殻のこと。この季節に蛇は数回脱皮し、そのたびに体が大きくなる。「つゆぐさの露を透かして蛇の衣」(石原舟月)。掲句は、一昨日の余白句会で高点を得た(兼題は「色」)。田舎での私の少年時代に、抜け殻は草の中や垣根などあちこちで散見されたが、脱皮する様子そのものを見たことはない。作者もおそらくはそうなのであって、残された抜け殻からの想像だろう。この想像力は素晴らしい。蛇にしてみれば、成長過程における単なる一ステップにすぎないとしても、その際には全身全霊のエネルギーを極限まで使いきっての行為だろうと想像したわけだ。兼題にそくしてそのことを視覚的に述べると、「色揚げ了り」となる。まったき新しい体色を全力で完成させて、ぬるぬると殻を脱いでいった蛇の様子が、目に見えるようではないか。生命賛歌であると同時に、脱皮した後の蛇の運命をちらりと気にさせるところもあり、なかなかに味わい深い。作者のアーサー・ビナード(Arthur Binard)は、1967年アメリカミシガン州生まれ。二十歳の頃ヨーロッパへ渡り、ミラノでイタリア語を習得。90年、コルゲート大学英米文学部を卒業。卒論の際、漢字に出会い、魅惑されて来日。日本語での詩作翻訳を始め、詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。どういうわけで余白句会に参加したのかは、私には不明だが、とにかく並の日本人以上に日本語ができる。余白句会では「日本語のことなら、漢字でも何でもアーサーに聞け」というくらいだ。いつどこでどうやって、それこそ彼は「脱皮」したのか。自転車好きにつき、俳号は「ペダル」。(清水哲男)


May 1952002

 昼が夜となりし日傘を持ちつづけ

                           波多野爽波

生として京都に移り住んだとき、関西の男がよく日傘をさしているのを見て、軽いカルチャー・ショックを受けたことを思い出した。さすがに若者はさしていなかったが、老人には多かった。夜の日傘。これぞ、絵に描いたような無用の長物だ。捨ててしまうわけにもいかず、何の役にも立たない長物を持ち歩く鬱陶しさ。句の様子からして、昼間もあまり使わなかったのかもしれない。不機嫌というほどでもないが、なんだか自分が馬鹿みたいに思われてくる。周囲の人たちは傘を持たずに歩いているので、余計にそう感じられる。たった一本の傘でも、さざ波のように苛立つ心。とくに傘嫌いの私には、よくわかる句だ。しかも、第三者たる読者には、なんとなく滑稽にさえ読める。以下、参考までに日傘の成り立ちを『スーパー・ニッポニカ2002』(小学館)より引き写しておこう。「元来は子供のさすものであった。江戸時代初期、男女ともに布帛(ふはく)で顔を包み隠すことが行われ、これを覆面といって、外出には欠くことのできないものであった。ところが17世紀中ごろ、浪人たちによる幕府転覆計画が発覚し、幕府は覆面の禁令を発布した。このため男女ともに素顔(すがお)で歩かざるをえなくなり、笠のかわりに、大人も日傘を用いるようになった。女性のさし物として日傘が定着したのは、宝暦(ほうれき)年間(1751〜64)からである」。イスラム教徒の女性が顔を隠す風習を奇異と見るのは、どうやら筋違いのようですね。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)




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