余白句会の兼題に「万緑」。自称草田男門としては辛い。「我の歯欠けそめる」とでも。




2002ソスN5ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1752002

 友情よアスパラガスに塩少々

                           中田美子

語は「アスパラガス」で夏。サラダ・ブームまでの日本人はあまり食べなかったので、季語として載っていない歳時記のほうが多い。近年出た講談社の『新日本大歳時記』が採用しているが、春季に分類されている。しかし、収穫期は四月下旬から七月上旬くらいまでだから、夏季のほうが妥当ではあるまいか。さて、掲句は「友情」のほどよい度合いを詠んでいる。「アスパラガスに塩少々」くらいが、お互いに負担もかからず、心地よいと……。同じようなことは、他にもさまざまに言い換えられるけれど、茹でたグリーン・アスパラの鮮やかな色彩とほどよい食感に託したことで、新鮮な説得力を持ちえた。太宰治の『走れメロス』や与謝野鉄幹の「♪友を選ばば書を読みて六分の侠気四分の熱」(「人を恋ふる歌」)的な友情のありようは、暑苦しくてかなわないということでもあるだろう。そのあたりのことも「塩少々」と、さらりとかわしてみせている。現代版「水魚の交わり」というところか。話はいきなり飛びますが、アスパラガスの缶詰って、底のほうを開けるんですね。長い間知らなくて、なんとも取りだしにくいなあと難儀してました。缶詰の横腹に、底から開けよとちゃあんと書いてあるのに。『惑星』(2002)所収。(清水哲男)


May 1652002

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

語は「朝焼(あさやけ)」で夏。高山から眺められる壮麗な山岳美の世界だ。朝焼けに染まった雲が海のようにひろがり溢れて、尾根を越えて落ちてゆく。太陽がのぼるにつれて、雲海の色も刻々と変化している。「溢れ落つ」の措辞が、なんとも力強い。久しく、こんな世界を忘れていた。学生時代に、級友と夜を徹して富士山に登ったときのことを思い出した。飛行機など乗ったことがなかったので、雲の上に出るなんてはじめてだったから、感動するよりも前に、感心した。物の本で読んだように、間近に見る雲は、たしかにめまぐるしく変化し、思いがけないほどの早さで落下していくのだった。しばらくして、詩の下書き用のノートに書きつけた。「落下する雲の早さで、どんどん歳が取れる朝よ来い」だなんて、若かったなあ。お恥ずかしい。掲句ほどのスケールは出せなかったにしても、ひねくれ根性を捨てて、もう少しストレートに歌えなかったものか。せっかくの山岳美を、矮小化するにもホドがあろうというものだ。「二度登る馬鹿」といわれる富士山に、二度目に登ったのは三十代も後半で、五合目で宿泊したにもかかわらず、もはやかつての山の子の健脚も錆びついており、朝焼けには間に合わなかった。ちっちやな子どもにもどんどん追い抜かれ、これではもう「三度と」登ることはないなとあえぎつつ、山岳美もへったくれもないのであった。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


May 1552002

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

                           橋本多佳子

語は「青葉木菟(あおばずく)」で夏。野山に青葉が繁るころ、インドなど南の国から渡ってくるフクロウ科の鳥。夜間、ホーホー、ホーホーと二声で鳴く。都市近郊にも生息するので、どなたにも鳴き声はおなじみだろう。「夫(つま)」に先立たれた一人居の夜に淋しさが募り、亡き人を恋しく思い出していると、どこからか青葉木菟の鳴き声が聞こえてきた。その声は、さながら「死ねよ」と言っているように聞こえる。死ねば会えるのだ、と。青葉木菟の独特の声が、作者の寂寥感を一気に深めている。一読、惻隠の情止みがたし……。かと思うと、同じ青葉木菟の鳴き声でも、こんなふうに聞いた人もいる。「青葉木菟おのれ恃めと夜の高処」(文挟夫佐恵)。「恃め」は「たのめ」、「高処」は「たかど」。ともすればくじけそうになる弱き心を、この句では青葉木菟が激励してくれていると聞こえている。自分を信じて前進あるのみですぞ、と。すなわち、掲句とは正反対に聞こえている。またこれら二句の心情の中間くらいにあるのが、「病むも独り癒ゆるも独り青葉木菟」(中嶋秀子)だ。夜鳴く鳥ゆえに人の孤独感と結びつくわけだが、受け止め方にはかくのごとくにバリエーションがある。ちなみに青葉木菟が季語として使用されはじめたのは、昭和初期からだという。近代的な憂愁の心情に、よく呼応する鳴き声だからだろうか。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます