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May 1652002

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

語は「朝焼(あさやけ)」で夏。高山から眺められる壮麗な山岳美の世界だ。朝焼けに染まった雲が海のようにひろがり溢れて、尾根を越えて落ちてゆく。太陽がのぼるにつれて、雲海の色も刻々と変化している。「溢れ落つ」の措辞が、なんとも力強い。久しく、こんな世界を忘れていた。学生時代に、級友と夜を徹して富士山に登ったときのことを思い出した。飛行機など乗ったことがなかったので、雲の上に出るなんてはじめてだったから、感動するよりも前に、感心した。物の本で読んだように、間近に見る雲は、たしかにめまぐるしく変化し、思いがけないほどの早さで落下していくのだった。しばらくして、詩の下書き用のノートに書きつけた。「落下する雲の早さで、どんどん歳が取れる朝よ来い」だなんて、若かったなあ。お恥ずかしい。掲句ほどのスケールは出せなかったにしても、ひねくれ根性を捨てて、もう少しストレートに歌えなかったものか。せっかくの山岳美を、矮小化するにもホドがあろうというものだ。「二度登る馬鹿」といわれる富士山に、二度目に登ったのは三十代も後半で、五合目で宿泊したにもかかわらず、もはやかつての山の子の健脚も錆びついており、朝焼けには間に合わなかった。ちっちやな子どもにもどんどん追い抜かれ、これではもう「三度と」登ることはないなとあえぎつつ、山岳美もへったくれもないのであった。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


July 0872009

 朝焼けの溲瓶うつくし持ち去らる

                           結城昌治

焼けに対して朝焼け、いずれも夏の季語。何といっても「朝焼け」と「溲瓶」の取り合わせが尋常ではない。思わず息を_むほどの、とんでもない取り合わせではないか。空っぽの溲瓶ではあるまい。朝焼けをバックにしたガラス瓶のなかの排泄したての尿は、先入観なしに見つめれば、決して汚いものではない。尿の色を「美し」ではなく「うつくし」とソフトに視覚的に受け止めた感性には恐れ入る。「うつくし」いそのものが、さっさと持ち去られたことに対する呆気なさ、口惜しさ――と言ってしまっては大袈裟だろうか。病人が快方に向かいつつある、ある朝の病室のスケッチ。ここで私は、昔のある実景を不意に思い出した。学生時代に、怪我で入院していた同年齢のいとこを見舞ったときのことである。彼はベッドで溲瓶を使い、たっぷり入った尿の表面の泡を「ほら、ほら」と大まじめに口で吹いてみせたから、二人で顔を見合わせて大笑いした。大ジョッキのビールもかくや! 二十二歳の昌治が師事していた病友・石田波郷が主宰する句会での作。二人の病室は隣り合っていた。波郷にも「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」という別のときの句がある。こちらは音。私なら昌治の「溲瓶」に点を入れる。まあ、いずれも健康な人には思いもよらない句である。昌治には二冊の句集『歳月』『余色』がある。『俳句は下手でかまわない』という、うれしくもありがたい著作があり、「初蝶や死者運ばれし道をきて」という病中吟もある。江國滋『俳句とあそぶ法』(1984)所載。(八木忠栄)


August 0582012

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

頂、または山小屋、テント場で迎えた朝。眼下の雲海は、朝焼けに照らされながら、ゆっくりと尾根から、あふれるように下界に落ちていきます。句のモチーフは、光と雲と岩のみで、人も生き物も読みこまれていません。生命が誕生する前からある、太陽と地球との無言の挨拶。そこには「おはよう」という言葉もありません。しかし、滝のように尾根から谷へと流れ込む雲海の動きをみていると、地球そのものが生きているように思えてきます。私は高校時代、山岳部だったので、大雪、知床、南アルプスなどを縦走しましたが、ここ近年は下界の塵芥の住人に甘んじています。掲句のような荘厳で雄大な句を目にすると、久しぶりに重い腰を上げて、リュックサックを背負ってみようか、という気持ちになります。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)




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