2002N5句

May 0152002

 磯に遊べリメーデーくずれの若者たち

                           草間時彦

語は「メーデー」で春。労働者の祭典だ。1958年(昭和三十三年)の句。私はこの年に大学に入り、多くの同級生がデモ行進に参加したが、私は行かなかった。いまと違って当時の行進は、あちこちで警官隊と小競り合いを起こす戦闘的なデモだったので、二の足を踏んでしまったわけだ。皇居前広場の「血のメーデー」事件から、六年しか経っていない。句に登場する若者たちは、デモに参加した後で、屈託なくも「磯遊び」に興じている。近所の工場労働者だろう。メーデーに参加すれば出勤扱いとなるので、午前中の行進が終われば後の時間はヒマになる。おそらく、ビアホールなどに繰り出す金もないのだろう。赤い鉢巻姿のままで磯に来て、無邪気にふざけあっている。ほえましいような哀しいような情景だ。この年は、年明けから教師の勤務評定反対闘争が全国的に吹き荒れ、岸信介内閣のきな臭い政策が用心深く布石され、しかも日本全体がまだ貧乏だったから、人々の気持ちはどこか荒れていた。鬱屈していた。「メーデーくずれ」の「くずれ」には、メーデーの隊列から抜け出てきたという物理的な意味もあるが、「若者よ、もっと真面目に今日という日を考えろ。未来を担う君らが、こんなところで何をやっているのか」という作者の内心の苛立ちも含められている。苛立っても、しかし、どうにもらぬ。「そう言うお前こそ、何をやってるんだ」。そんな作者の自嘲的な自問自答が聞こえてきそうな、苦い味のする句だ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


May 0252002

 八十八夜都にこころやすからず

                           鈴木六林男

語は「八十八夜」で春。立春から数えて八十八日目にあたる日。野菜の苗は生長し、茶摘みも盛りで、養蚕は初眠に入る農家多忙の時期のはじまりだ。「八十八夜の別れ霜」と言い、この日以降は霜がないとされたので、農家の仕事はやりやすくなる。つまりは、多忙にならざるを得ない。「都(みやこ)」の人たちの行楽シーズンとはまこと正反対に、いよいよ労働に明け暮れる日々が訪れるのである。いま作者は「都」にあって、そんな田舎の八十八夜あたりの情景を思い出しているのだろう。作者が食わんがために都会に出てきたのか、あるいは学問をするために上京してきたのか。それは、知らない。知らないが、いずれにしても、いま都会にある作者の「こころ」はおだやかではない。都会生活を怠けているわけではないのだけれど、どこか心が疼いてくる。家族や友人などが汗水垂らして働いているというのに、自分ひとりはのほほんと過ごしているような後ろめたさの故だ。都会人の大半は田舎者であり、それぞれの故郷がある。その故郷には、苦しい労働の日々がある。昔は、とくにそんなだった。かつての田舎出の都会生活者が、再三この種のコンプレックスに悩まされたであろうことは、容易に想像できる。農村を離れてもう半世紀も過ぎようかという私にしてからが、ついにこのコンプレックスからは離れられないままだ。たまの同窓会で農家を継いだ友人たちに会うと、あれほど百姓仕事がイヤだったにもかかわらず「みんな偉いなあ」「申し訳ないなあ」と小さくなってしまう。「詩を作るより田を作れ」。作者には轟音のように、この箴言が響いているのだと思われた。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0352002

 半抽象山雀が籠出る入る

                           竹中 宏

錦の御旗
語は「山雀(やまがら)」で夏。シジュウガラ科の鳥で、鳴き声や色合いといい、なかなかに愛嬌がある。体長は15センチ弱。昔の縁日などで、よく「おみくじ引き」をやっていたのが山雀だ。まずは客が賽銭を渡すと、山雀使いのおじさんが籠をあけ、山雀に一円玉を渡す。すると小鳥はコインを銜えて参道を進み、賽銭箱に金を落とし、鈴を鳴らす。それから階段を登り、お宮の扉を開け、中からおみくじを取り出す。そしておみくじの封を開け、調べるようにクルクル回しておじさんに渡す。で、麻の実をもらうと、ちょんちょんと元の籠に戻って行く。とまあ、こんな段取りだ。見ていて、飽きない。作者も、しばらく見ていたに違いない。が、見ているうちに、山雀のあまりの正確な動きに、具象というよりも抽象的なフォルムを感じてしまった。目の前の山雀は、間違いなく具象としての存在だ。しかし、動きは抽象的と思われるほどに、きっちりと一定の動きしか見せない。そこで「半抽象」という言葉が浮かんできたのだろう。普通の国語辞典では見当たらないが、美術用語としてはごく普通に使われている。「半具象」なる言葉も、よく使われる。そういえば小鳥に限らず、人間に芸を仕込まれた動物の動きは、みなこのような「半抽象」のフォルムに集約されるのかもしれない。彼らは具象として生きながら、半分は本来の複雑な身体機能を奪われ抽象化されてしまっているのだ。その芸は見飽きなかったけれど、どこかに哀れを感じたのは、そういうことだったのかと、掲句を読んでハッと胸に来るものがあった。野鳥保護法で、この「半抽象」芸も息絶えてしまったけれど。俳誌「翔臨」(2002・第43号)所載。(清水哲男)


May 0452002

 行く春を死でしめくくる人ひとり

                           能村登四郎

書に「中村歌右衛門逝く」とある。名女形と謳われた六代目が亡くなったのは、昨年(2001年)の三月三十一日のこと。桜満開の東京に、二十五年ぶりという雪が舞った日の宵の口だった。命日と掲句の季節感とはずれているが、何日か経ってからの回想だろう。そして、同年の五月二十四日には、六代目より五歳年長だった作者も卒寿で逝くことになる。ほぼ同世代のスター役者が亡くなった。そのことだけを、ぽつりと述べている。残念とか惜しいとか言うのは、まだまだ若い人の言うことで、九十歳の作者にとってはぽつりで十分だったのだろう。長生きして老人になれば、友人知己はぽつりぽつりと欠けていく。若い頃とは違い、もはやさしたる嘆きもなく、その人の死の事実だけを素直に受け入れていく。知己ではない歌右衛門の死だから、ことさらにぽつりと他人事としてつぶやいたのではなく、この句は誰の死に対しても同じ受け入れ方をするようになった作者の心のありようを、たまたま有名役者の死に事寄せて述べたのではあるまいか。みずからの来たるべき死についても、同じように淡々と受け入れるということでもあるだろう。長命の人は誰もが、諦念からでもなく孤独感からでもなく、このように現実の死を受容できるのだとしたら、少しは長生きしてみたくなってくる。でも、詩人の天野忠さんが珍しく怒って言ってたっけ。わかりもしないくせに、ぬるま湯につかったような「老人観」をしゃべるもんじゃないよ、と。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)


May 0552002

 色町にかくれ住みつつ菖蒲葺く

                           松本たかし

語は「菖蒲葺く(しょうぶふく)」で夏。端午の節句に、家々の軒に菖蒲を挿す風習だ。いまではまず見られないが、邪気を除き火災を免れるためとされたようである。掲句には、短編小説の趣がある。何かの事情から、普通の生活者としては立ち行かなくなった。いわゆる「わけあり」の人になってしまった。「色町」は夜間こそにぎわうところだが、昼間は人通りも少なく、まず誰かが訪ねてくる心配もない。おまけに近隣に暮らす人たちは、立ち入られたくない事情のある人が多い。だから、お互いに素性などを詮索したりはしない。「かくれ住む」には絶好の場所なのである。しかし、かくれ住んでいるからといって、完全に世を捨てているわけではない。どこかに、健全な市民社会への未練が残っている。その未練が「菖蒲葺く」に端なくも露出していると、作者は詠んでいる。たまたま、昼間の色町を通りかかった際の偶見だろう。だから、その家の人が「わけあり」かどうかは、本当はわからないのだ。が、なんとなくそう感じさせられてしまうのが、色町の醸し出す風情というもの。偏見だと、目くじらを立てるほどのことでもないだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 0652002

 夏来たる市井無頼の青眼鏡

                           佐藤雅男

の上とはいえ、今日から夏だと思うと、なんとはなしに心が明るくなる。その嬉しさを表現するのに、昔から詩歌ではさまざまな小道具が持ちだされてきたが、この句の「青眼鏡」は異色だ。紫外線を避けるためのサングラスは、昔は黒眼鏡が普通だった。句が作られた年代は、諸種の条件を絞り込んでいくと戦後であり、いちばん新しくても1960年代半ばころかと思われる。このころに黒眼鏡ではなく「青眼鏡」をかけるとすれば、もとより実用のためではない。昔流に言えばダテ眼鏡、今風に言えばファッション・グラス。黒眼鏡だって、ダテにかけはじめる人が増えてきたのも、60年代くらいから。その頃だったろうか。美空ひばりの母親が「夜でも黒眼鏡をかけているような人とは話もしたくない」と言った相手は、野坂昭如であった。そのように、とにかく色眼鏡をかけているだけで、不良だと思われた時代があった。作者はそのことを百も承知の上で「市井無頼(しせいぶらい)」の徒を気取って街に出たのだ。青い眼鏡を通して見える風景は、裸眼で見るよりももちろん幻想的であり、それが「もう夏なんだなあ」という嬉しさを増幅してくれる。加えて、すれ違う人々が自分のことを「マトモな人間じゃないな」などと苦々しく感じているかと思えば、まるで映画の主人公にでもなったような気分で、ますます嬉しくなる。かつて、夜でも黒眼鏡をかけていた私には、このキザな男の他愛ないが、やや屈折した気持ちの昂ぶりようがよくわかる。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 0752002

 榛名山大霞して真昼かな

                           村上鬼城

榛名山
週の土曜日、群馬の現代詩資料館「榛名まほろば」に少し話をしに行った。会場の窓からは、赤城・妙義と並ぶ上毛三山の一つである榛名山が正面に望見された。土地の人に聞くと、春から初夏にかけてのこれらの山は靄っていることが多く、なかなかくっきりとは見えないそうだ。この日もぼおっと霞んでいた。そこでこの句を思い出し、真昼のしんとした風土の特長を正確かつおおらかに捉えていると納得がいった。鬼城は榛名にほど近い高崎の人だったから、常にこの山を眺めていただろう。旅行者には詠めない深い味わいがある。ところで「榛名まほろば」は、詩人の富沢智君が私財を投じて作った施設だ。設立趣旨に曰く。「現代詩にかかわる人なら誰もが一度は夢見るお店として、開店に向けて動き始めました。喫茶室とイベントスペースを設けた、閲覧自由の現代詩資料館としてオープンする予定です。すでに、各地には立派な文学館が建設されていますが、多くは潤沢な資金と立地とにめぐまれているにもかかわらず、あるいはそれ故に、運営面での柔軟さに欠けるきらいがあるのではないでしょうか。……」。場所は北群馬郡榛東村広馬場で、有名な伊香保温泉から車で15分ほど。高崎からのバスの便もある。全国から寄贈された詩書がぎっしりと並んでいて、背表紙を眺めているだけで現代詩の厚みが感じられた。そして確かに、公共施設にはない自由で伸びやかな雰囲気も。平井照敏編『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0852002

 卯の花やちちの描きし左馬

                           佐藤さよ子

左馬
語は「卯の花」で夏。陰暦四月を「卯月」と呼ぶのは、この花に由来する。庭木か生け垣にか、今年も卯の花が咲きはじめた。豪奢な花ではないので、作者のつつましやかな家のたずまいが浮かんでくる。どんな場面かは想像するしかないけれど、たとえば、玄関をガラッと開けたときに、明るい五月の日差しのなかの白い花を見たのではあるまいか。陽光は玄関先にも射し込んできて、飾ってある「左馬(ひだりうま)」をまぶしく照らし出した。長い間飾ってあるので、日頃はさして気にもとめないのだが、このときはあらためて見入る気持ちになったのだろう。左馬は、将棋の駒に「馬」の文字を鏡文字のように左右逆にして書く。由来には、諸説がある。「うま」の逆は「まう」なので「舞う」に通じ、舞いは祝いの席に欠かせないから縁結びの駒。下方の形が巾着に似ているので、お金を呼び込む駒など。いずれにしても縁起物で、父親は駒作りの職人(書き師)だったのだろう。商売とはべつに、娘のために精魂込めて描いてくれた逸品なのだ。飾っておいたからといって、とりたてて家運隆盛ということもなかったが、可もなく不可もなく、こうやって暮らしていけることが、父親が飾り駒に込めたいちばんの願いだったのではあるまいか。元気だった父親のことがしみじみと思い出され、いまにも卯の花の向こうからひょっこり顔をのぞかせそうな……。写真は、天童市観光物産協会のページから拝借。「俳句」(2002年5月号)所載。(清水哲男)


May 0952002

 苗代に満つ有線のビートルズ

                           今井 聖

語は「苗代(なわしろ)」で春。現在では育苗箱で育てる方式が多いので、なかなか見られなくなった。句が1993年(平成五年)に詠まれていることからすると、まだ昔ながらの方式も細々とつづいているようだ。相当に大きな苗代田だろう。生長した若い苗がぎっしりと立ち並び、山からの風にそよぐ様子は、陳腐な形容だが絵のように美しい。植田のグリーンは淡くはかなげだが、苗代田のそれは濃くたくましい。その上を有線放送でビートルズの曲が颯爽と流れているのは、いかにも現代的で面白い。一昔前なら絶対に演歌だったろうが、有線の選曲担当者の世代も代替わりしてしまい、いまや演歌には関心を示さないのだ。村の古老たちはこのビートルズを聞いて、どんな思いでいるのだろう。ちょっとそんなペーソスも含み込んで、時代の移り行きに鋭敏な佳句である。蛇足めくが、句の有線(法規上では「有線ラジオ放送」)は都市の街頭放送などと同じ原理によるが、一定区域内に音響を送信する「告知放送」と呼ばれている。1956年(昭和三十一年)に農林省の新農山漁村建設計画で補助金が出たことから、急速に全国に普及した。主たる用途は災害時の緊急警報や役場からのお知らせにあったが、そんなにいつも告知すべき事柄があるわけじゃない。したがって、多くは役場の若者の趣味的音楽番組垂れ流しのメディアと化し、うるさいのなんのって……。いまでもほとんどの自治体に有線設備はあるけれど、さすがに日頃は送信しなくなってしまった。したがって、掲句のビートルズ放送は、極めて稀なケースでもある。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


May 1052002

 母郷つひに他郷や青き風を生み

                           沼尻巳津子

語は「青き風(風青し)」で夏。青葉のころに吹き渡るやや強い風のことで、「青嵐」「夏嵐」などとも。嵐とは言っても、晴れ晴れとした明るい大風だ。掲句は、母をはじめとする母方の血縁者が「つひに」絶えてしまったことへの感慨である。作者は、ひとり残っていた血縁の者が亡くなって、葬儀のために久しぶりの「母郷」に出かけてきたのだろう。幼いころから、母と一緒に何度も訪れた土地である。楽しい思い出も、いっぱい詰まっている。しかし、この土地もこれで「他郷」となってしまった。もはや、二度と訪れることはないだろう。青葉が繁る美しい季節に、今年も昔と少しも変わらない「青き風」が生まれていて、これきり縁が切れてしまうなど信じられない。が、人の現実は時の流れに連れて変わるのだ。自然はそのままでも、人は同じからず……。明るい「青き風」のなかでの感慨ゆえに、いっそう「他郷」の現実が心に沁みる。昔も今も、一般的に父方の土地で生活する(生活した)人は多いが、母郷での生活者は少ない。したがって父郷はまたみずからの故郷なのだが、母郷はそうではない。血縁者以外に、友人知己はいないのが普通だろう。ここに、母郷に対する何か甘酸っぱいような思いがわいてくる。その一種甘美な思いが滲んだ良き土地とも、いつかこのような現実によって、すぱりと絶たれてしまうことが起きる。『背守紋』(1969)所収。(清水哲男)


May 1152002

 夏落葉有髪も禿頭もゆくよ

                           金子兜太

語は「夏落葉」。常磐木落葉(ときわぎおちば)という季語もあるように、夏に落葉するのは椎や樫などの常緑樹。落葉樹は晩秋に葉を落とすが、これは寒くて日照時間の少ない冬を生きのびるために、なるべくエネルギーを使わないですむようにとの自然の自衛策だ。対するに、常緑樹の落葉は加齢にしたがっての老化現象による。葉の寿命は、一般的には二、三年だそうだ。したがって、人間の髪の毛が脱落する原因は、常緑樹のそれに似ていると言えるだろう。句は、ひっそりと葉の舞い落ちてくる道を大勢の人が歩いているという、何の変哲もない情景設定だ。その歩いている人たちを、あえて「有髪(うはつ)」と「禿頭(とくとう)」に着眼し分類してみせたところが面白い。有髪であれ禿頭であれ、常緑樹だってホラこのように葉を落とすのだから、五十歩百歩でたいした違いがあるわけじゃない。すでに禿頭の作者は、達観しているというのか居直っているというのか、なんだか愉快な気分にすらなっている。有髪の人だと、こういうことは思いつきもしないだろう。そこがまた、掲句が何がなしペーソスすら感じさせる所以でもあると思った。それにしても、兜太ほどに禿頭句を多産している俳人はいない。そのあたりを考え合わせると、達観からでも居直りからでもなく、もはや「愛」からであると言うべきか。『金子兜太集・第一巻』(2002・筑摩書房)所収。(清水哲男)


May 1252002

 母の日や主婦の結核みな重く

                           山本蒼洋

んという哀しい句だろう。作者は医者だろうか。たしかに、こういう時代があった。日本での結核患者は明治に入ってから増えはじめ、第二次世界大戦中にピークを迎えたという。社会の近代化に伴い、労働条件、都市環境、衛生施設、栄養面での劣悪な条件が、流行の素地となった。大家族のなかで誰よりも早く起き、一日中コマネズミのように働き、誰よりも遅くまで起きていた多くの主婦たちは、これらの条件の悪さをことごとく背負って生きていた。毎日の炊事洗濯だけでも、大変な労働だったのだ。しかも、少しくらい身体に不調を覚えても休めなかった。休養は許されなかった。これでは、とても早期発見などかなうわけがない。彼女らが医者に診てもらうのは、もはや気力を振り絞ってもどうにも身体が動かなくなってからだったので、当然のことながら病状は既に重く進行していた……。作者が医者だとしても、もはや手遅れに近い病状の主婦を前にして、おそらく言うべき言葉はなかっただろう。「何故こんなになるまでに、医者に診せなかったのか」などとは、言っても甲斐なき世の中の仕組みだったからだ。結核の流行は、社会が生みだしたものなのである。この句は、さりげない表現ながら、そんな世の中の仕組みを激しく憎んでいる。現代では、開発途上国に蔓延しているという。今日という日に結核に限らず、社会のせいで哀しい「母の日」を迎えている人たちは、世界中に数えきれないほど存在していることを忘れないようにしよう。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 1352002

 陽はありき十九の夏の小石川

                           佐藤鬼房

譜を見ると、作者は十九歳のとき(1938年・昭和十三年)に東京・小石川植物園の裏手に移り住み、日本電気本社の臨時工として働いた。いまでも当時の名残なのだろうか、小石川から飯田橋にかけての一帯には小さな町工場があちこちにある。青春追懐句。六十代の句と思われる。一見、リリカルな美しさを帯びた句と読めるが、なかなかに苦い味わい。四季を通じて、もっとも「陽」があって当たり前なのは「夏」なのだから、その季節に寄せてあえて「陽はありき」と詠んだところに、作者の苦しかった若き日がしのばれる。おそらくは物理的にも「陽」のあたらない下宿暮らしであり工場勤務だったのだろうし、精神的にも前途への「陽」はさして見えていなかったということだろう。しかしいま省みて思うに、物心両面での苦しさはあったけれど、そこには「十九」という若さゆえの「陽」が確かにあったのだと、しみじみと思い出している。屈折してはいるが、おのれの若き日、若き生命への賛歌だと受け取っておきたい。この句を読んで、自然に自分の十九歳のころに意識が動き、真っ暗な大学受験浪人生だったことを思い出し、しかし私にもそれなりの「陽」はあったのだと追懐した次第。ヘルマン・ヘッセじゃないけれど、はるか彼方に過ぎ去ってみて初めて「青春は美し(うるわし)」なのでした。『何處へ』(1984)所収。(清水哲男)


May 1452002

 征矢ならで草矢ささりし国家かな

                           小川双々子

語は「草矢(くさや)」で夏。蘆などの葉を裂いて、指にはさんで矢のように飛ばす。退屈しのぎに「草矢うつ正倉院の巡査かな」(鳥居ひろし)などと。掲句は、さながら現代日本の政情を風刺しているかのようだ。「征矢(そや)」は実際の戦闘に用いられる矢のことだが、遊び事の草矢が何かにささることは、まずありえない。が、我らが「国家」には簡単にささってしまうのだ。ああ、何をか言わんや、ではないか。今回の中国領事館の出来事にしても然り。目の前で不可侵権を侵害されても、ただぼおっと立っているだけ。これぞ、絵に描いたような「有事」だというのに。私だったら、かなわぬまでも大声をあげ警官を押し戻そうとしただろう。事の是非を考えるよりも、とにかく身体がそのように反応しただろう。そうすれば、警官は十中八九は退いたはずだ。彼らはみな、その程度のトレーニングは受けている。かつての安保全学連で習得した一つのことは、理念の肉体化物質化だった。ただ見ていただけの外交官には、権利を防衛する意識がまったく肉体化されていない。自分が、国家の最前線に位置している自覚すらない。「同意」はしなくとも「拒絶」もしなかった。だから、たかが草矢ごときにさされてしまうのだ。外交官が武闘派である必要はまったくないが、呆然と眺めている必要もまったくない。トレーニングが足らねえなあと、テレビ映像を見て舌打ちしたことであった。そして、征矢ならばともかく草矢がささるはずなどあるものか、ささったのであれば自分でさしたのだというのが、現段階での中国側の認識である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


May 1552002

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

                           橋本多佳子

語は「青葉木菟(あおばずく)」で夏。野山に青葉が繁るころ、インドなど南の国から渡ってくるフクロウ科の鳥。夜間、ホーホー、ホーホーと二声で鳴く。都市近郊にも生息するので、どなたにも鳴き声はおなじみだろう。「夫(つま)」に先立たれた一人居の夜に淋しさが募り、亡き人を恋しく思い出していると、どこからか青葉木菟の鳴き声が聞こえてきた。その声は、さながら「死ねよ」と言っているように聞こえる。死ねば会えるのだ、と。青葉木菟の独特の声が、作者の寂寥感を一気に深めている。一読、惻隠の情止みがたし……。かと思うと、同じ青葉木菟の鳴き声でも、こんなふうに聞いた人もいる。「青葉木菟おのれ恃めと夜の高処」(文挟夫佐恵)。「恃め」は「たのめ」、「高処」は「たかど」。ともすればくじけそうになる弱き心を、この句では青葉木菟が激励してくれていると聞こえている。自分を信じて前進あるのみですぞ、と。すなわち、掲句とは正反対に聞こえている。またこれら二句の心情の中間くらいにあるのが、「病むも独り癒ゆるも独り青葉木菟」(中嶋秀子)だ。夜鳴く鳥ゆえに人の孤独感と結びつくわけだが、受け止め方にはかくのごとくにバリエーションがある。ちなみに青葉木菟が季語として使用されはじめたのは、昭和初期からだという。近代的な憂愁の心情に、よく呼応する鳴き声だからだろうか。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 1652002

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

語は「朝焼(あさやけ)」で夏。高山から眺められる壮麗な山岳美の世界だ。朝焼けに染まった雲が海のようにひろがり溢れて、尾根を越えて落ちてゆく。太陽がのぼるにつれて、雲海の色も刻々と変化している。「溢れ落つ」の措辞が、なんとも力強い。久しく、こんな世界を忘れていた。学生時代に、級友と夜を徹して富士山に登ったときのことを思い出した。飛行機など乗ったことがなかったので、雲の上に出るなんてはじめてだったから、感動するよりも前に、感心した。物の本で読んだように、間近に見る雲は、たしかにめまぐるしく変化し、思いがけないほどの早さで落下していくのだった。しばらくして、詩の下書き用のノートに書きつけた。「落下する雲の早さで、どんどん歳が取れる朝よ来い」だなんて、若かったなあ。お恥ずかしい。掲句ほどのスケールは出せなかったにしても、ひねくれ根性を捨てて、もう少しストレートに歌えなかったものか。せっかくの山岳美を、矮小化するにもホドがあろうというものだ。「二度登る馬鹿」といわれる富士山に、二度目に登ったのは三十代も後半で、五合目で宿泊したにもかかわらず、もはやかつての山の子の健脚も錆びついており、朝焼けには間に合わなかった。ちっちやな子どもにもどんどん追い抜かれ、これではもう「三度と」登ることはないなとあえぎつつ、山岳美もへったくれもないのであった。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


May 1752002

 友情よアスパラガスに塩少々

                           中田美子

語は「アスパラガス」で夏。サラダ・ブームまでの日本人はあまり食べなかったので、季語として載っていない歳時記のほうが多い。近年出た講談社の『新日本大歳時記』が採用しているが、春季に分類されている。しかし、収穫期は四月下旬から七月上旬くらいまでだから、夏季のほうが妥当ではあるまいか。さて、掲句は「友情」のほどよい度合いを詠んでいる。「アスパラガスに塩少々」くらいが、お互いに負担もかからず、心地よいと……。同じようなことは、他にもさまざまに言い換えられるけれど、茹でたグリーン・アスパラの鮮やかな色彩とほどよい食感に託したことで、新鮮な説得力を持ちえた。太宰治の『走れメロス』や与謝野鉄幹の「♪友を選ばば書を読みて六分の侠気四分の熱」(「人を恋ふる歌」)的な友情のありようは、暑苦しくてかなわないということでもあるだろう。そのあたりのことも「塩少々」と、さらりとかわしてみせている。現代版「水魚の交わり」というところか。話はいきなり飛びますが、アスパラガスの缶詰って、底のほうを開けるんですね。長い間知らなくて、なんとも取りだしにくいなあと難儀してました。缶詰の横腹に、底から開けよとちゃあんと書いてあるのに。『惑星』(2002)所収。(清水哲男)


May 1852002

 夏に入るや亀の子束子三つほど

                           西野文代

語は「夏(げ)に入る(夏入)」で夏。立夏や夏至のことではない。僧侶が、屋内に籠って静かに行を修することをいう。期間は必ずしも一定していないようだが、だいたい旧暦四月中旬から七月中旬までの間で、「安居(あんご)」「夏行(げぎょう)」などとも。この期間、外に出ると蟻やその他の虫を踏み殺すというので、一切外出しないのが本来の夏入だという説もある。お坊さんも大変だ。作者は寺の多い京都の人だから、ふとそのことを思い出して、お坊さんほどに精進はできないにしても、せめて家中の汚れものや浴室をピカピカに磨こうかと「亀の子束子(かめのこたわし)」を求めたのだろう。一つではなく「三つ」も買ったところに、気合いを入れた感じが出ている。作者によれば、求めた店は先斗町北詰にある荒物屋。「そこだけがまるで時代から取り残されたように昔のたたずまいを残している。荒物屋といっても棕櫚製品だけを扱っている店だ。今どき、こんなものがと思われるようななつかしい品々がひっそりと並べられている。荒神箒の大中小、刷毛の大中小、更に豆刷毛の大中小、縄も太いの細いのに中細。柄付束子の大中小に亀の子束子の大中小。……」。しかも、店番をしているのが「大正か昭和のはじめ頃から抜け出てきたような小母さん」だというから、ここで「夏入」の季節を思い出すのはごく自然のことかもしれない。それにしても、京都にこんな店が生き残っているとは。どなたか発見されましたら、ご一報を。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


May 1952002

 昼が夜となりし日傘を持ちつづけ

                           波多野爽波

生として京都に移り住んだとき、関西の男がよく日傘をさしているのを見て、軽いカルチャー・ショックを受けたことを思い出した。さすがに若者はさしていなかったが、老人には多かった。夜の日傘。これぞ、絵に描いたような無用の長物だ。捨ててしまうわけにもいかず、何の役にも立たない長物を持ち歩く鬱陶しさ。句の様子からして、昼間もあまり使わなかったのかもしれない。不機嫌というほどでもないが、なんだか自分が馬鹿みたいに思われてくる。周囲の人たちは傘を持たずに歩いているので、余計にそう感じられる。たった一本の傘でも、さざ波のように苛立つ心。とくに傘嫌いの私には、よくわかる句だ。しかも、第三者たる読者には、なんとなく滑稽にさえ読める。以下、参考までに日傘の成り立ちを『スーパー・ニッポニカ2002』(小学館)より引き写しておこう。「元来は子供のさすものであった。江戸時代初期、男女ともに布帛(ふはく)で顔を包み隠すことが行われ、これを覆面といって、外出には欠くことのできないものであった。ところが17世紀中ごろ、浪人たちによる幕府転覆計画が発覚し、幕府は覆面の禁令を発布した。このため男女ともに素顔(すがお)で歩かざるをえなくなり、笠のかわりに、大人も日傘を用いるようになった。女性のさし物として日傘が定着したのは、宝暦(ほうれき)年間(1751〜64)からである」。イスラム教徒の女性が顔を隠す風習を奇異と見るのは、どうやら筋違いのようですね。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


May 2052002

 全身の色揚げ了り蛇の衣

                           アーサー・ビナード

語は「蛇の衣(へびのきぬ)」で夏。蛇の抜け殻のこと。この季節に蛇は数回脱皮し、そのたびに体が大きくなる。「つゆぐさの露を透かして蛇の衣」(石原舟月)。掲句は、一昨日の余白句会で高点を得た(兼題は「色」)。田舎での私の少年時代に、抜け殻は草の中や垣根などあちこちで散見されたが、脱皮する様子そのものを見たことはない。作者もおそらくはそうなのであって、残された抜け殻からの想像だろう。この想像力は素晴らしい。蛇にしてみれば、成長過程における単なる一ステップにすぎないとしても、その際には全身全霊のエネルギーを極限まで使いきっての行為だろうと想像したわけだ。兼題にそくしてそのことを視覚的に述べると、「色揚げ了り」となる。まったき新しい体色を全力で完成させて、ぬるぬると殻を脱いでいった蛇の様子が、目に見えるようではないか。生命賛歌であると同時に、脱皮した後の蛇の運命をちらりと気にさせるところもあり、なかなかに味わい深い。作者のアーサー・ビナード(Arthur Binard)は、1967年アメリカミシガン州生まれ。二十歳の頃ヨーロッパへ渡り、ミラノでイタリア語を習得。90年、コルゲート大学英米文学部を卒業。卒論の際、漢字に出会い、魅惑されて来日。日本語での詩作翻訳を始め、詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。どういうわけで余白句会に参加したのかは、私には不明だが、とにかく並の日本人以上に日本語ができる。余白句会では「日本語のことなら、漢字でも何でもアーサーに聞け」というくらいだ。いつどこでどうやって、それこそ彼は「脱皮」したのか。自転車好きにつき、俳号は「ペダル」。(清水哲男)


May 2152002

 わが死後の乗換駅の潦

                           鈴木六林男

季句。「潦(にわたずみ)」は、雨が降ったりして地上にたまった水。または、あふれ流れる水。水たまりのこと。季語ではないが、これからの長雨の季節を思わせる。郊外の駅だろう。通勤の途次、乗り換えの電車を待っている。構内のあちこちに、水たまりができている。すでに見慣れた光景でしかない。いつも、同じところにできる同じ形の水たまり……。普段は何気なく見過ごしているというか、さして気にも止めない変哲もない水たまりだけれど、ふと「わが死後」にもここに同じように変哲もなくありつづけるのだろうと思った。そんな思いにかられると、何の変哲もない潦がにわかに生気を帯びて新鮮なそれに見えてくる。あらためて、まじまじと見つめててしまうのだ。たとえばこれが山河に対してだったら、誰しもが自分の死後にもありつづけるのは当たり前だと感じるけれど、作者は生成消滅を繰り返す水たまりにこそ「永遠」を感じている。ここが句のポイントで、悠久の時間の流れのなかで考えれば、つまりは山河であれ何であれ、自然は水たまりのように生成消滅を繰り返すのが当たり前なのだ。ただ水たまりのほうが、人間の時間の間尺に基準を合わせると、わかりやすく短時間で生まれたり消えたりしているに過ぎない。この認識から、何を思うかは読者の自由。ルーティン化した通勤時間にも、ふと日常感覚から外れた何かを感じたり発見している人はたくさんいるだろう。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


May 2252002

 芍薬や枕の下の金減りゆく

                           石田波郷

語は「芍薬(しゃくやく)」で夏。花の姿は牡丹(ぼたん)に似ているが、芍薬は草で、牡丹は木だ。牡丹が散りだすと、芍薬が咲きはじめる。療養中の句だろう。病室から見える庭に芍薬が咲いているのか、あるいは見舞客が切り花で持ってきてくれたのか。「立てば芍薬」の讃め言葉どおりに、すっと背筋を伸ばした芍薬が咲き誇っている。対するに作者は横臥しているので、この構図からだけでも、病む人のやりきれなさが浮き上がってくる。さらに加えて、「金(かね)」の心配だ。長期入院の患者は、売店で身の回りのものを買ったりするために、いくばくかの現金を安全な「枕の下」にしまっておくのだろう。その金も底をついてきた。補充しようにも、アテなどはない。そんな不安のなかでの芍薬の伸びやかに直立している様子は、ますます病気であるゆえのもどかしさ、哀れさを助長するのである。枕の下の金で、思い出した。晩年はほとんど自室で寝たきりだった祖母が亡くなった後、布団を片づけたところ、枕の下から手の切れるような紙幣がごそっと出てきたそうだ。紙幣はすべて、何十年か以前に発券された昔のものばかりであったという。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2352002

 明易き絶滅鳥類図鑑かな

                           矢島渚男

オオウミガラス
語は「明易し(あけやすし)」で夏。これから夏至にむかって、どんどん夜明けが早くなっていく。伴って、鳥たちの目覚めも早く、住宅街のわが家の周辺でも、最近では五時前くらいから鳴くようになった。カラスがいちばん早く、あとから名前も知らない鳥たちが鳴き交わすので、鳴き声に起こされることもある。作者は、長野県丸子町在住。私などのところよりも、よほど多くの鳴き声が聞こえるだろう。さて、そんな鳥たちに早起きさせられた作者は『絶滅鳥類図鑑』を見ているのだが、鳥の鳴き声を聞いたので図鑑を手にしたわけではないだろう。むしろ、昨夜寝る前にめくっていた図鑑が、そのまま机上に残されていたと解釈しておきたい。就寝前に、絶滅した鳥たちの運命に思いをめぐらした余韻がまだ残っているなかで、現実に生きている鳥たちの元気な鳴き声と出会い、複雑な感慨にとらわれているのだ。あらためて図鑑の表紙を凝視している作者には、昨夜はむしろ絶滅した鳥たちのほうが近しかった。それが寝覚めの半覚醒状態のなかで、徐々に現実に引き戻されていく過程を書いた句だと読める。引用した図は、19世紀イギリスの剥製師ジョン・グールドが描いた「オオウミガラス」。北大西洋に住んでいた海鳥だが、人間が食べ尽くして絶滅したという。『梟のうた』(1995・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


May 2452002

 子探しの声の遠ゆくかたつむり

                           上田五千石

語は「かたつむり(蝸牛)」で夏。夕暮れ近く、遊びに出かけたまま、なかなか戻ってこない子供を母親が探している。どこのお宅に入りこんで遊んでいるのか。心当たりの方向に「○○ちゃーん、ゴハンですよー」と声をかけて歩いている。その声も、だんだん遠ざかっていく。「遠ゆく」という言葉は初見だが、意味はこれでよいだろう。作者の造語だろうか。あるいは、どこかの方言かもしれない。開け放った作者の窓辺には、我関せず焉といった風情で「かたつむり」がじっと眠っている。母親の「子探し」といってもこの時間には毎度のことだから、何も心配するほどのことでもない。そんな「世はすべて事もなし」の好日感を、さらっとスケッチした句だ。強いて理屈をこねれば、かたつむりはいつも家を背負って歩いているので、子探しをすることもないから、人間よりもよほど気楽。比べて、人間の暮らしはあれこれと厄介なことが多い。ここらあたりのことを対比していると読めないこともないけれど、私はさらっと読んでおく。そのほうが、夏の夕暮れの情景を気持ちよく受け止められる。最近では、こうした情景も見られなくなってしまった。表から大声で呼んでも聞こえない構造の家が増えてきたし、電話も普及している。それに第一、当の子供が遊んで歩かなくなってしまったからだ。掲句は、いまから三十年ほど前に詠まれたもの。『森林』(1978)所収。(清水哲男)


May 2552002

 簾巻きて柱細りて立ちにけり

                           星野立子

語は「簾(すだれ)」で夏。夕刻になって、涼しい風を入れるために簾を巻き上げた。と、普段は気にも止めていなかったのだが、意外なほどに我が家の柱の細いことに気づかされたのである。簾の平面と柱の直線の切り替わりによって、以前より細くなったように見えた。もっと言えば、まるで「柱」みずからが、昼の間に我と我が身を細らせたかのようにすら見えてくる。こんなに細かったのか。あらためて、つくづくと柱を見つめてしまう……。「柱の細く」ではなく「柱細りて」の動的な表現が、作者の錯覚のありようを見事に捉えており、「巻きて」「細りて」と「て」をたたみかけた手法も効果的だ。日常些事に取材して、これだけのことが書ける作者の才能には、それこそあらためて脱帽させられた。俳句っていいなあと感じるのは、こういう句を読んだときだ。簾といえば、篠原梵に「夕簾捲くはたのしきことの一つ」があるが、私も少年時代には楽しみだった。巻き上げても両端がちゃんと揃わないと気がすまず、ていねいに慎重にきっちりと巻いていく。少しでも不揃いだと、もう一度やり直す。格別に整理整頓が好きだったわけではなく、単なる凝り性がたまたま簾巻きにあらわれたのだろう。いまでも乱暴に巻き上げられた簾を見かけると、直したくなる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


May 2652002

 少女らは小鳥のごとし更衣

                           大井戸辿

語は「更衣(ころもがえ)」で夏。この風習もかなりすたれてきたが、学校や企業等によっては、日を定めていっせいに制服を夏のものに着替える。学校の制服姿は人数も多いので目立つから、否応なく新しい季節の到来を感じさせられることになる。さて、掲句には類句累々。さしたる発見はなけれども、しかし、なんだかほほ笑ましい。そしてちょっぴり哀しいのは、あえて「少女らは小鳥のごとし」と凡庸な比喩を使った作者と「少女ら」との距離と時間の遠さによる。作者が少年であれば、決してこのように詠むことはないだろう。男として年輪を重ねてきた人でなければ、こんなバカな(失礼)比喩は使えない。若い読者には奇異に受け止められるかもしれないが、この句をじいっと見つめていると、浮かび上がってくるのは作者の老境である。句を裏返せば「小鳥らは少女のごとし」であっても、いっこうに差し支えはないのだ。それほどに他人事というか、もはや少女との交流など考えも及ばない年齢の諦観みたいな心境がじわりと露出してくる。小鳥が本質的には無縁なように少女とも無縁で、もはや両者を等価にしか捉えられない哀しさよ。作者の本意はどうであれ、この平々凡々とした比喩が告げているのは、そういうことなのだと思われた。いま反射的に思い出したのは、その昔に仕事の相棒だった女性の、私には衝撃的だった少女観。「小学校高学年から中学くらいの女の子が、いちばん汚らしく見えるのよね」。となれば、掲句に賛同できる女性は少ないかもしれない。少なくとも一般的に可愛らしいとしてよい「小鳥」の比喩には、我慢がならないかもしれない。「俳句」(2002年6月号)所載。(清水哲男)


May 2752002

 麦秋や江戸へ江戸へと象を曳き

                           高山れおな

象
語は「麦秋(ばくしゅう)」で夏。見渡すかぎりに黄色く稔った麥畑のなかを、こともあろうに象を歩かせるという発想がユニークで愉快だ。どんなふうに見えるのだろう。なんだかワクワクする。が、掲句は、空想句ではなく史実にもとづいた想像句だ。実際に、江戸期にこういう情景があった。以下は、長崎県の「長崎文化百選」よりの引用。「(象が)はっきり初渡来として歓迎されたのは、亨保十三年(1728年)将軍吉宗の時代に長崎に渡来したときである(松浦直治)という。 六月七日にオランダ船で長崎に着いた象は、雄と雌の二頭。雌の一頭は病気で死んだが。残った七歳の雄は将軍吉宗に献上のため翌十四年三月十六日長崎を出発。十四人の飼育係に交代で見守られながら、江戸まで三百里(約1200km)をノッシノッシと行進する。南蛮渡来のこの珍獣を一目見ようと、沿道は大変な騒ぎ。ずっと後世のパンダブームのような大フィーバーである。なにしろ巨体だから、橋も補強しなければならない。大井川はイカダを組んで渡す、といったありさま。そのころはもう江戸では象の写生図が早打ち飛脚で到着して一枚絵に刷られ、象の記事の載ったかわら版は、いくら刷っても売り切れ『馴象編』『象志』など象百科のような出版物は十数種に上ったという。 五月二十五日に江戸に着いた象は、浜御殿の象舎に入った。翌々日江戸城へ引き入れられ、吉宗は諸大名とともに象を見物した」。しかしこの象は、やがて栄養失調でやせ細り死んでしまったという。あまりの大食ぶりに、さすがの江戸幕府も持て余したようだ。図版は長崎古版画(長崎美術館蔵)より。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


May 2852002

 来て立ちて汗しづまりぬ画の女

                           深見けん二

語は「汗」で夏。「画の女」を、最初は、自分がモデルになった画の出展されている展覧会を見に来た女性かなと思ったのだが、そうすると「来て立ちて」の「立ちて」が不自然だ。あらためて、当たり前の立ち姿を紹介する必要はないからである。そうではなくて、美術教室のモデルとして来た女性だろう。定刻ギリギリにやって来て、一息つく時間もなく、ハンカチで汗を押さえるようにしながら、そのまま描き手の前に立った。そして、早速ポーズを決めるや、すうっと汗が「しずま」ったというのである。役者などでもそうだが、本番で汗をかくような者は失格だ。このモデルも、さすがにプロならではの自覚と緊張感とをそなえていたわけで、作者は大いに感心している。モデルがぴしっとすれば、教室全体に心地よい緊張感がみなぎってくる……。モデルを前にして画を描いたことはないけれど、モデルはたとえば音楽のコンダクター的な役割を担う存在なのではあるまいか。少しでも気を抜けば、たちまち描き手に伝染してしまうのだろう。しかるがゆえに、モデルの価値は容貌容姿などにはさして依存していない。価値は、描きやすい雰囲気をリードできるかどうかにかかっているのだと思う。画を描かれるみなさま、いかがでしょうか。『星辰』(1982)所収。(清水哲男)


May 2952002

 集金は残り一軒雨蛙

                           納谷一光

語は「雨蛙(あまがえる)」で夏。あたりに雨の気配が漂ってくると、よく通る声で鳴く習性を持つことからの命名。外で仕事をする人にとっては、頼もしくも天才的な雨の予報官だ。彼らが鳴きはじめると、濡らしてはいけない道具類をまずは緊急退避させたりする。さて、掲句の作者は傘を持っていないので、雨蛙が鳴きはじめたとなると、気が気ではない。空を見上げれば、さきほどまでの青空はすっかり姿を消してしまい、まもなくザァーッと降ってきそうだ。さあ、どうしたものか。雨蛙が鳴くくらいだから、繁華な都会の道ではないだろう。自分自身を緊急退避させなければと思うと同時に、しかし仕事は「残り一軒」でめでたく終わるのだ。どうしようか。もう一度考えて、「ええい、ままよ」と「集金」を優先させることにした。急に足早に歩きはじめた作者の周囲では、ますます雨蛙の鳴き声が繁くなってくる……。そんな印象を受けた。これが「残り三軒」ならば、誰が悪いわけじゃなし、あきらめて引き返すところだろうに、あと「一軒」だからかなりの無理をしてしまう。仕事には、そういった側面がありますね。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 3052002

 香水や優柔不断盾として

                           佐藤博美

語は「香水」で夏。身だしなみを整え、これから外出するところ。でも、心弾む外出ではない。先方では難題が待ち受けていて、何らかの態度を決めなければならないのだ。どう応接すべきか。いくら思案しても、どうしたらよいのか結論が出ない。決めかねたままに、外出の時間が迫ってきた。で、仕上げの香をしのばせながら思い決めたのが「優柔不断」……。今日のところはこれを「盾(たて)」として、結論をもう少し先延ばしにするしかないだろう、と。男であれば、さしずめネクタイを締めながら心を決める場面だ。言われてみれば、優柔不断もたしかに堅牢な盾となる。香水の句で有名なのは、中村草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」だ。この「鉄壁」の本質が、実は女性の優柔不断だったらどうだろうと思うと、草田男の生真面目さに切なさと可笑しさが同時にこみあげてくる。ところで、この句を読んであらためて気がついたのは、私は外出寸前に態度を決めることが多いということだった。難題に対してばかりではなく、気ままな遊びでのコース選びについても同様だ。目的地までのバスや電車のなかでは、なかなか考えがまとまらない。というよりも、ほとんど思考停止の状態になってしまう。変更する時間の余裕はたっぷりあっても、結局は家で決めた通りの道筋をたどることになる。すなわち、家から持ちだした盾を後生大事に抱えてしか歩けないというわけだ。なんでしょうかねえ、これって。『私』(1997)所収。(清水哲男)


May 3152002

 雷落ちて八十年を顧る

                           後藤夜半

語は「雷(らい)」。日本海側では冬にも多いが、全国的には夏に最も多いことから、夏季としている。句は、落雷後の束の間に働いた心の動きをそのまま述べている。よほど近くに落ちたのだろう。有無を言わせぬ雷鳴と轟音で、その後しばらくの間は、頭のなかが真っ白になった感じがする。助かってよかっただとか、どこに落ちたのだろうなどと思う以前に、限りなく一瞬に近い束の間の空白が生じる。その空白のなかで、作者は「八十年を顧(かえり)」みたと言う。むろん、束の間のことだから、長く生きてきた人生のあれこれのことを具体的に回想できたわけではない。瞬間、何かがさあっと頭のなかを通り過ぎていった。それが自分の歴史からは抜き難いエッセンスだったような気がして、「八十年を顧る」と書き留めたのである。したがって、掲句には顧みた感慨は何も含まれていない。「夢のごとし」のような諦観もない。ただ、自然に心がそう働いたことへの不思議な充実感を述べている。人は死ぬときに、一生のことを走馬灯のように思い出すものだとは、よく聞く話だ。死んだことがないのでわからないけれど、死に際の回想も、もしかすると句のような性質のものかもしれない。と、これはついでに思えたことである。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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