超多忙な一週間のはじまり。アリガタイコトデス。と、思おうとするけれど、思えない。




2002ソスN4ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2242002

 陽炎や荷台の犬の遠ざかる

                           古澤千秋

語は「陽炎(かげろう)」で春。軽トラックの「荷台」だろうか。私の好みでは昔のオート三輪あたりのそれがふさわしいと思えたが、とにかく「犬」がちょこんと乗っているのだ。この場合、荷台には他の荷物が何も無いほうが良い。引っ越し荷物の隙間などに犬がいるよりは、空っぽの荷台に大人しくうずくまっているほうが「あれっ」と不思議を感じさせられるからだ。運転している飼い主が乗せたのだろうけれど、どう見ても引っ越しではなさそうだし、となれば、何故犬が荷台に乗っているのか。目撃してそう思った次の瞬間には、もう車は発進してしまい、車も犬もゆらめく陽炎のなかに溶けるようにして遠ざかって行った。白日夢と言うと大袈裟になるが、なんだかそれに近い印象を受ける。こういう句を読むと、つくづく「俳句なんだなあ」と思う。こういうことは会話で伝えることも難しいし、散文でもよほどの描写力がないと伝わらないだろう。つまり、ナンセンスを伝えようとするときの困難なハードルを、俳句様式は楽々と越えてしまえるというわけだ。かくのごとき些事を良く伝え、しかも読者にしっかりとイメージづけてしまうところが凄い。むろん、これらのことをよく承知している作者の腕の冴えがあっての上の話だが……。ちなみに、陽炎は英語で「heat haze」と言うようだ。直訳すると「熱靄」かな。英語のほうが理屈的にはより正しいのだろうが、感覚的には「陽炎」の命名のほうがしっくりとくる。俳誌「ににん」(2002年春号・vol.6)所載。(清水哲男)


April 2142002

 杉菜食ふ馬ひつたつる別かな

                           関 節

語は「杉菜(すぎな)」で春。土筆(つくし)の終わるころから、杉菜が生える。杉菜の地下茎から生える胞子茎が土筆で、栄養茎のほうが杉菜だ。江戸期の句。前書に「餞別(せんべつ)」とある。親友との別れだろう。見送りに行き、いよいよここで別れねばならぬと思えば、なかなかに別れがたく、なおしばらく言葉を交わしあう。そんな人間同士の交流とは無縁に、馬は暢気にそこらへんの杉菜を喰らっている。と、いきなり友人が委細構わずという感じで、馬を「ひつた」てた。これから長い道中を共にする愛馬を、ことさらに乱暴に扱った。「ひつたつる」の乱暴さが、決別の挨拶であり、別れの哀しみの表現でもある。交通事情がよくなった昨今とは違い、昔はこのようにして一度別れてしまえば、今度はいつ会えるかもわからない。もしかすると、生涯会うことはないかもしれぬ。したがって、餞別には金品にせよ句のような言葉にせよ、並々ならぬ気持ちが込められていた。まともな意味での餞別の風習は、戦後もしばらくの間までは残っていて、中学二年の私が山口県の村を去るときにも、友人から餞別をもらった記憶がある。それぞれが大切にしていた消しゴムだとか色鉛筆だとか……。なかで最も嬉しかったのは、いちばんの仲良しが、早朝の旅立ちに一里も離れたバス停まで見送ってくれたことだ。金品には代えられぬ餞別だと、いまでも思っている。前日にきちんと別れの言葉をかけあって、それこそきちんと別れたつもりだった。なのに、まだ薄暗い田舎道を家族と歩きはじめた途端に、遠くから「おおい」と駆けてくる奴がいるではないか。貧乏で(ま、お互いさまだったけど)目覚まし時計もない奴が、どうやってこの時間に起きられたのか。一瞬びっくりしたが、私はいつものように「おお」と言い、自然に重い荷物を力持ちの彼に託していた。そして一里の道などはあっという間に尽き、田舎のバスは一家を「ひつたつる」ようにして乱暴に発車したのだった。ときどきここに登場する「竹馬の友」が、奴である。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 2042002

 韮粥につくづく鰥ごころなる

                           瀧 春一

語は「韮(にら)」で春。「韮の花」といえば夏季になる。また、「鰥(やもお)」は妻を失った男、男やもめのこと。さて、お勉強。なぜ大魚を一義とする鰥が、男やもめを意味するのか。調べてみようとしたが、私の貧弱な辞典環境ではわからなかった。どなたか、ご教示ください。作者が韮粥を食べているのは、ちょっとした風流心などからではないだろう。たぶん体調を崩してしまい、食欲もなく、粥にせざるをえなかったのだと思う。それでも白粥のままではいかにも栄養不足に思われ、庭の韮をつまんできて、気は心程度にではあるが少々の緑を散らした。こういうときに妻が健在だったら、もっと栄養価の高いものを食べさせてくれたろうに……。身体が弱ると、心も弱る。「つくづく鰥ごころ」が高じてきて、侘しさも一入だ。淡い粥のような味わいのある句。読者にもそんな環境の方がおられるだろうが、どうかご自愛ご専一に。蛇足ながら、たとえ鰥でも体調万全となると、一転してこんなへらず口を叩いたりする。「人生には至福の時が二度ある。一度目は妻となる女性がヴァージンロードを歩いてくる時。二度目は妻の棺桶が門から出ていく時」。なに、生涯「韮粥」とは無縁の国で暮らした可哀想な男のひとりごとです。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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