今日は仕事のための読書。味気ない思いをするときもあるが、刺戟を受ける場合が多い。




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April 2142002

 杉菜食ふ馬ひつたつる別かな

                           関 節

語は「杉菜(すぎな)」で春。土筆(つくし)の終わるころから、杉菜が生える。杉菜の地下茎から生える胞子茎が土筆で、栄養茎のほうが杉菜だ。江戸期の句。前書に「餞別(せんべつ)」とある。親友との別れだろう。見送りに行き、いよいよここで別れねばならぬと思えば、なかなかに別れがたく、なおしばらく言葉を交わしあう。そんな人間同士の交流とは無縁に、馬は暢気にそこらへんの杉菜を喰らっている。と、いきなり友人が委細構わずという感じで、馬を「ひつた」てた。これから長い道中を共にする愛馬を、ことさらに乱暴に扱った。「ひつたつる」の乱暴さが、決別の挨拶であり、別れの哀しみの表現でもある。交通事情がよくなった昨今とは違い、昔はこのようにして一度別れてしまえば、今度はいつ会えるかもわからない。もしかすると、生涯会うことはないかもしれぬ。したがって、餞別には金品にせよ句のような言葉にせよ、並々ならぬ気持ちが込められていた。まともな意味での餞別の風習は、戦後もしばらくの間までは残っていて、中学二年の私が山口県の村を去るときにも、友人から餞別をもらった記憶がある。それぞれが大切にしていた消しゴムだとか色鉛筆だとか……。なかで最も嬉しかったのは、いちばんの仲良しが、早朝の旅立ちに一里も離れたバス停まで見送ってくれたことだ。金品には代えられぬ餞別だと、いまでも思っている。前日にきちんと別れの言葉をかけあって、それこそきちんと別れたつもりだった。なのに、まだ薄暗い田舎道を家族と歩きはじめた途端に、遠くから「おおい」と駆けてくる奴がいるではないか。貧乏で(ま、お互いさまだったけど)目覚まし時計もない奴が、どうやってこの時間に起きられたのか。一瞬びっくりしたが、私はいつものように「おお」と言い、自然に重い荷物を力持ちの彼に託していた。そして一里の道などはあっという間に尽き、田舎のバスは一家を「ひつたつる」ようにして乱暴に発車したのだった。ときどきここに登場する「竹馬の友」が、奴である。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)所載。(清水哲男)


April 2042002

 韮粥につくづく鰥ごころなる

                           瀧 春一

語は「韮(にら)」で春。「韮の花」といえば夏季になる。また、「鰥(やもお)」は妻を失った男、男やもめのこと。さて、お勉強。なぜ大魚を一義とする鰥が、男やもめを意味するのか。調べてみようとしたが、私の貧弱な辞典環境ではわからなかった。どなたか、ご教示ください。作者が韮粥を食べているのは、ちょっとした風流心などからではないだろう。たぶん体調を崩してしまい、食欲もなく、粥にせざるをえなかったのだと思う。それでも白粥のままではいかにも栄養不足に思われ、庭の韮をつまんできて、気は心程度にではあるが少々の緑を散らした。こういうときに妻が健在だったら、もっと栄養価の高いものを食べさせてくれたろうに……。身体が弱ると、心も弱る。「つくづく鰥ごころ」が高じてきて、侘しさも一入だ。淡い粥のような味わいのある句。読者にもそんな環境の方がおられるだろうが、どうかご自愛ご専一に。蛇足ながら、たとえ鰥でも体調万全となると、一転してこんなへらず口を叩いたりする。「人生には至福の時が二度ある。一度目は妻となる女性がヴァージンロードを歩いてくる時。二度目は妻の棺桶が門から出ていく時」。なに、生涯「韮粥」とは無縁の国で暮らした可哀想な男のひとりごとです。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1942002

 家ぬちを濡羽の燕暴れけり

                           夏石番矢

語は「燕(つばめ)」で春。実景だとすれば、慄然とさせられる。「家ぬち」は家の「内」。雨に濡れた燕が、突然すうっと家の中に飛び込んできた。燕にしてみれば、我が身に何が起きたのかわからない。わからないから、必死に自由な空間を求めて、暴れまくるのみ。燕も驚いたろうが、家ぬちの人間だって仰天する。どうやって逃がしてやろうか。そんなことを思案するいとまもなく、暴れる燕におろおろするばかりだ。「暴れけり」と言うのだから、なんとか騒動に「けり」はついたのだろうが、思い出すだに恐い句だ。しかし、実景ではなかった。吉本隆明との対談のなかで、作者が次のように述べている。「私としては、一つは家庭内暴力性みたいなものが書けてるんじゃないか、直感で書いた句なんですが、その照応関係を意外に思ってるんです。『濡羽』の『濡(ぬれ)』はおそらく母親、それこそ母体からの水、もしくは、母親とのパトス的な繋がりや齟齬なんかもひょっとしてあったのかなと……」。吉本さんが「俳句ってのは家庭内暴力ですから」と言った流れのなかでの発言だ。とくに難解な現代俳句を指して、その難解性の在所を示すのに、「家庭内暴力」という視点は面白いと思う。ただ理不尽に難解に見える句にも、その根には暴力を振るう当人にもよくわからないような直感が働いているということであり、作句の根拠があるということだ。掲句は、そうした自身のわけのわからぬ内なる暴力性を、有季定型の手法で直感的に造形してみると、こうなったということだろう。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)




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