政治家スキャンダルを迷彩に重要法案が通りすぎていく。策士を策に溺れさせないと。




2002ソスN4ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2042002

 韮粥につくづく鰥ごころなる

                           瀧 春一

語は「韮(にら)」で春。「韮の花」といえば夏季になる。また、「鰥(やもお)」は妻を失った男、男やもめのこと。さて、お勉強。なぜ大魚を一義とする鰥が、男やもめを意味するのか。調べてみようとしたが、私の貧弱な辞典環境ではわからなかった。どなたか、ご教示ください。作者が韮粥を食べているのは、ちょっとした風流心などからではないだろう。たぶん体調を崩してしまい、食欲もなく、粥にせざるをえなかったのだと思う。それでも白粥のままではいかにも栄養不足に思われ、庭の韮をつまんできて、気は心程度にではあるが少々の緑を散らした。こういうときに妻が健在だったら、もっと栄養価の高いものを食べさせてくれたろうに……。身体が弱ると、心も弱る。「つくづく鰥ごころ」が高じてきて、侘しさも一入だ。淡い粥のような味わいのある句。読者にもそんな環境の方がおられるだろうが、どうかご自愛ご専一に。蛇足ながら、たとえ鰥でも体調万全となると、一転してこんなへらず口を叩いたりする。「人生には至福の時が二度ある。一度目は妻となる女性がヴァージンロードを歩いてくる時。二度目は妻の棺桶が門から出ていく時」。なに、生涯「韮粥」とは無縁の国で暮らした可哀想な男のひとりごとです。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1942002

 家ぬちを濡羽の燕暴れけり

                           夏石番矢

語は「燕(つばめ)」で春。実景だとすれば、慄然とさせられる。「家ぬち」は家の「内」。雨に濡れた燕が、突然すうっと家の中に飛び込んできた。燕にしてみれば、我が身に何が起きたのかわからない。わからないから、必死に自由な空間を求めて、暴れまくるのみ。燕も驚いたろうが、家ぬちの人間だって仰天する。どうやって逃がしてやろうか。そんなことを思案するいとまもなく、暴れる燕におろおろするばかりだ。「暴れけり」と言うのだから、なんとか騒動に「けり」はついたのだろうが、思い出すだに恐い句だ。しかし、実景ではなかった。吉本隆明との対談のなかで、作者が次のように述べている。「私としては、一つは家庭内暴力性みたいなものが書けてるんじゃないか、直感で書いた句なんですが、その照応関係を意外に思ってるんです。『濡羽』の『濡(ぬれ)』はおそらく母親、それこそ母体からの水、もしくは、母親とのパトス的な繋がりや齟齬なんかもひょっとしてあったのかなと……」。吉本さんが「俳句ってのは家庭内暴力ですから」と言った流れのなかでの発言だ。とくに難解な現代俳句を指して、その難解性の在所を示すのに、「家庭内暴力」という視点は面白いと思う。ただ理不尽に難解に見える句にも、その根には暴力を振るう当人にもよくわからないような直感が働いているということであり、作句の根拠があるということだ。掲句は、そうした自身のわけのわからぬ内なる暴力性を、有季定型の手法で直感的に造形してみると、こうなったということだろう。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)


April 1842002

 吹き降りのすかんぽの赤備前なる

                           宮岡計次

火だすき
語は「すかんぽ」で春。酸葉(すいば)とも。私の故郷山口県では、酸葉と呼んでいた。茎や葉に酸味があり、口さみしくなると摘んで吸ったものだ。全国どこにでも自生していたはずが、最近ではさっぱり見かけない土地もある。私の住む三鷹近辺でも見たことがない。句では、すかんぽが強い風雨にさらされている。眺めていると、その「赤」色がいよいよ鮮やかに写り、やはり「備前(びぜん)」ならではの「赤」よと感に入っている。備前は、現在の岡山県の南東部の古名。なぜ備前ならではなのかと言えば、作者には備前名物の焼物が意識されているからだ。備前焼。釉薬(ゆうやく)をかけずに素地(きじ)の渋い味わいを生かすのが特色で、肌は火や窯の状態で変化し、なかでも火だすき(写真参照)に一特色がある。すなわち、作者の眼前で激しく揺れているすかんぽの色と形状は、さながら備前焼の火だすきのようであり、さすがは備前よというわけだ。また、この「備前なる」の「なる」はすかんぽにかけられていると同時に、作者にも「備前なる(私)」とかかっている。作者が備前の人なのか旅行者なのかはわからないが、いずれにしても、今このようにして備前にあることの誇らしさを詠んだものだ。藤村の「小諸なる古城……」と同様の「なる」で、単にそこにあるのではなく、そこならではのと、作者のプライドを含ませた「なる」である。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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