あゝ麗しい距離(デスタンス)、つねに遠のいてゆく風景(吉田一穂)。いいなア。




2002ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542002

 春の潮先帝祭も近づきぬ

                           高浜虚子

語は「春の潮(はるのしお・春潮)」。海の潮の様子は、季節の変化をよくあらわす。春には、しだいに冬の藍色が薄くなり、明るい色に変わってくる。それだけでも心が弾んでくるが、ああ今年も祭りが近づいてきたと思えばなおさらだ。そんな弾む心を潮に反射させた虚子の腕前は、さすがだと思う。どこがどうというわけでもないのだけれど、人と自然との親和的な関係がよく描出されている。「先帝祭(せんていさい)」は、山口県は下関市赤間神宮のお祭りだ。5月2〜4日。一度だけだが、学生時代に見物したことがある。竹馬の友が菓子メーカーに住み込みで働いていて、彼を訪ねたところ、それが偶然にも祭りの当日だった。平家滅亡のとき、壇ノ浦で入水した安徳天皇は阿弥陀寺(明治以降は赤間神宮)に葬られたが、後鳥羽天皇が先帝のため命日の旧暦三月二十四日に法要を営み、先帝会と称したことに始まるという。女官が菩提を弔うため遊女に姿を変えて参拝したという伝えによって、女官装束で行列して参拝する「じょうろう道中」が、祭りのクライマックスだ。沿道に立っていても、眠くなるようなよい日和だった。写真が残っているはずだが、どこに紛れているのか。小学校の修学旅行は下関と小倉だったが、貧しくて行けなかった。だから、このときの「先帝祭」こそが私の下関の大切な思い出だ。その後、下関に行くたびに必ず小倉にも足をのばすことになった。掲句に惹かれたのには、そんな個人的な事情もからんでいる。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1442002

 打興じ田楽食ふや明日別る

                           大野林火

語は「田楽(でんがく)」で春。豆腐を竹の平串に刺し、あぶって水気をとってから木の芽味噌をつけ、再び火にあぶって作る。野趣があり、いかにも春らしい食べ物だ。気のおけない友人といつものように酒を飲み、「打興じ」るままに旬の「田楽」でも食おうかということになり、楽しさがなお高調してきた。と、そのときにすっと胸をよぎった「明日別る」。読み下してきて、ここで読者はぎくりとする。別れの宴だったのかと……。こういうときには、人はお互いにつとめて明るくふるまい、明るくふるまっているうちに、いつしか「明日別る」ことも忘れてしまい、いつもと同じ時間を過ごしているような気持ちになる。が、楽しければ楽しいほどに、何かちょっとしたきっかけから、実は違うのだという動かしがたい現実を思い出さされたときは、余計に辛くなる。その意味で、句の「田楽」は、二人の交遊録に欠かせない食べ物なのかもしれないと思った。木の芽味噌の山椒の味と香りが、哀しくもほろ苦く二人の別れの時を告げたのだ。ご存知かとも思うが、ついでに「田楽」の由来を付記しておく。「田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。江戸後期の川柳に『田楽は昔は目で見、今は食い』と、ある。(C)小学館」。ちなみに、冬の「おでん」は「お田楽」の呼称から「楽」が省略された田楽の応用料理だそうである。江戸期の豆腐料理の本を見ると、実にバリエーションが豊富だ。いまどきでは「豆腐ステーキ」なんてものまである。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1342002

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

多喜代子が「俳句研究」(2001年5月号)で紹介していた句。思わず吹きだしてしまった。皮肉たっぷりな句だが、しかし不思議に毒は感じられない。惜春の情などというものは自然にわき出てくるのが本来なのに、詩歌の先人たちの作品を見ていると、みな「必死に」なって行く春を惜しんでいる。どこに、そんな必要があるのか。妙なこってすなア。とまあ、そんな句意だろう。この句を読んでから、あらためて諸家の惜春の句を眺めてみると面白い。事例はいくらでもあげられるが、たとえば先人中の先人である芭蕉の句だ。『奥の細道』には載っていないけれど、同行の曽良が書き留めた句に「鐘つかぬ里は何をか春の暮」がある。旅の二日目に、室の八島(現・栃木市惣社)で詠んだ句だ。「何をか」は「何をか言はんや」などのそれで、入相の鐘(晩鐘)もつかないこの里では、何をたよりに春を惜しめばよいのかと口をとんがらかしている。だったら別に惜しまなくてもいいじゃんというのが、瓜人の立場。天下の芭蕉も、掲句の前では形無しである。はっはつは。なお「春の暮」は、いまでは春の夕暮れの意に使われるが、古くは暮春の意味だった。その点で、芭蕉の用法は曖昧模糊としている。たぶん、暮春と春夕の両者にかけられているのだろう。詠んだのが、旧暦三月二十九日であったから。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます