ここのレイアウトを少し変えたくてバタバタしている。細かい作業は肩がこります。




2002ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242002

 葉ざくらの口さみしさを酒の粕

                           安東次男

語は「葉ざくら(葉桜)」。通常では夏に分類されるが、今年は花が早かったので、いまごろの句としても違和感はない。艶を帯びた葉が美しい。句は「葉ざくらの」で切れている。この「の」がポイントで、強いて単純に言えば「の」の後に「季節」だとか「頃の気分」だとかという言葉が省略されているわけだ。が、それだけにとどまらず、同時に句全体にもかかっていると読める。「葉ざくらや」と、一度完全に切り離しても句にはなるけれど、「の」とぼかしたほうが情趣が伸びる。葉桜とは何の関係もない「口さみしさ」の淡い食欲と「酒の粕(かす)」のほのかな酒精にも、それとなくマッチしてくる。それにしても、口さみしさを癒すのに酒粕とは粋だなあ。ちょっと火に焙ってから、ちょっと千切って口にしている。私だったらせいぜいが飴玉どまりだから、とても句にはなりそうもない。たとえ家に酒粕があったとしても、こういうときに食べようとは思いも及ばないだろう。句が作者の実際を詠んだかどうかは二の次なのであって、この取りあわせと先の「の」とが微妙に照応しあい、いまだ春愁を引きずっているような初夏の気分が鮮やかに出た。ご存知の読者も多いと思うが、作者はつい先ごろ(4月9日)他界された。享年八十二。合掌。『流』(1996・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


April 1142002

 滅入るほど草青みゐて死が近し

                           小倉涌史

者五十九歳の絶筆。連作「受洗せり」の最後にこの句を原稿用紙に書きつけてから、三ヶ月の後にこの世を去ることになる。膵臓癌であった。小倉涌史と当サイトとは浅からぬ縁があったが、そのことは既に書いたことがあるので略する。季語は「草青む」で春。「下萌(したもえ)」と同様に、早春の息吹きを伝える季語だ。その青さが「滅入るほど」とあるので、作句の時期が仲春ないしは暮春であることが知れる。「花の下遺影のための写真撮る」と死を覚悟した人が、「滅入るほど」と言うのは壮絶な物言いだ。生命力あふれる青草の勢いに、みずからの残り少ない弱い命が気圧されている。それも息苦しいほどに、だったろう。しかし、このときに「滅入るほど」という措辞は、単なる嘆きの表現ではないと、私には感じられる。「滅入ってしまった」のではなく、あくまでも「滅入るほど」なのだからだ。「滅入るほど」には、なお作者に命の余力があることが示されている。すなわち、弱き命がここで強い青草の命のプレッシャーを、微力なれども押し返そうとしていることになる。作者の身体が、そして命が、自然にそのように反応したのだ。壮絶と書いたのは、しかるがゆえに「死が近し」と、あらためて覚悟せざるを得なかった作者の胸のうちを推し量ってのことでもある。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


April 1042002

 蛤をおさへて椀を傾けし

                           須原和男

語は「蛤(はまぐり)」で春。吸い物の蛤を、箸で「おさへて」飲もうとしている。さりげない所作の一瞬を詠んだ句だが、吸い物の香りが伝わってくるようで、唸らされた。そしてなによりも、ゆったりと食事を楽しんでいる作者の姿が彷彿としてくるところが素敵だ。好日感に溢れている。私などはせっかちだから、むろん箸で押さえはするのだけれど、そういうところには気持ちが行かない。偶然に行ったとしても、とても句にすることはできそうもない。些事中の些事をとらえて、これほどにゆったりとした時間と空間を演出できる腕前は、天性の資質から来ているのだろうと思えてしまう。句集を読むと、作者はこうした些事のなかに一種の好日感を流し込む名手だとわかる。「桃の花竿が布団にしなひつゝ」にしても、誰もが見かける情景ではあるが、作者ならではの措辞「しなひつゝ」でびしゃりと決まっている。干されている布団がまだ冬用の厚手のそれであることが示され、干している家の人の春爛漫の時を待ちかねていた気持ちが時空間的に暗示されている。暗くて寒い冬をようやく抜け出た喜びが、よく「しなひつゝ」に込められているからだ。感度の良さもさることながら、俳句的表現の特性をよく知っている人だと思った。『式根』(2002)所収。(清水哲男)




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