今宵は詩の出版社・思潮社のパーティ。詩人たちと会うだけで励まされる気持ちに。




2002ソスN4ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0542002

 追伸に犬の消息さくら散る

                           泉田秋硯

紙の相手は、作者の飼い犬のことを知っているのだから、かなり親しい人だ。一通りの用件を書き終えて、そうそう彼には知らせておかなければと、その後の「犬の消息」を付け加えた。あまり、芳しい消息ではあるまい。もしかすると、最近死んだのかもしれぬ。「さくら散る」が、そのことを暗示している。空っぽの犬小屋に、はらはらと桜が散りかかっている。そんなイメージが、私には自然にわいてきた。「追伸」のさりげなさが、逆に「もののあはれ」を静かに切なく訴えかけてくる。追伸とは、考えてみれば面白い様式だ。洋の東西を問わず、手紙には書き方の作法というものがあるから、必然的に主文からこぼれてしまう事どもがある。そんな「よしなしごと」を付け加えるために発想されたのが、追伸という様式だろう。もはや主文ではないので、いきなり調子が変わっても失礼にはあたらない。どうか気軽に読み捨てにしてほしいと、追伸(追啓、追白、追陳、二伸などとも)の様式自体が告げているのだ。でも、だからといって、追伸に気楽なことばかりを書くのかといえば、そうでもないところが面白い。主文なんぞは二の次で、追伸にこそいちばん書きたいことを書くということも起きてくる。さりげなさの逆用だ。ビートルズに「P.S. I LOVE YOU」という歌がある。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


April 0442002

 ポケットの鶯笛に手の触れぬ

                           佐藤和枝

語は「鶯笛(うぐいすぶえ)」で春。上手に吹けば、鶯そっくりの音が出る。よく梅園などで売られているので、梅見の帰路の句かもしれない。懐かしさにかられて買い求め、そっとコートのポケットに収めた。そのうちに買ったことすら忘れてしまっていたのだが、ふと手が触れたときに一瞬何だろうと思い、「ああ、さっき買ったんだっけ」と思い出した。表面的にはそれだけの句だけれど、さりげなく伝えられている作者の心の弾みが心地よい。いま取りだして歩きながら、子供のようにピーピー吹くわけにはいかないが、家に戻ったら吹いてみよう。昔みたいに、うまく吹けるかしら……。楽しみだ。そんなささやかな心の弾みである。名所や観光地に出かけると、このような郷愁を誘う玩具に出くわす。笛の類はもちろん、独楽やら竹とんぼやら達磨落としやら首を振る虎やらと、どういうわけかビー玉だとかビーズ細工なんてのまで売っていたりする。つい買ってしまい、帰宅してからちょっと遊んでみるだけで、いつの間にやらどこかに紛れてしまう。逆に買おうかどうしようかと逡巡して、結局買わずに帰り、やっぱりあのときに買えばよかったと、ひどく後悔することもある。郷愁の玩具。現代の子供が大人になったら、そう呼べるものはあるのだろうか。脱線して、そんなことも思ったことである。「俳句研究」(2002年4月号)所載。(清水哲男)


April 0342002

 手の切れるやうな紙幣あり種物屋

                           大木あまり

語は「種物(たねもの)」ないしは「種物屋」で春。種物は、稲を除く穀類、野菜、草花の種子のこと。四季を通じて種子はあるのだけれど、季題で言う種物は、とくに春蒔きの種子を指している。明るい季節の到来を喜ぶ気持ちからだろう。ところで、一般的に種物屋といえば、薄暗くて小さな店というイメージがある。最近ではビルの中の片隅などに明るいショップも登場しているが、メインが花屋であったりと、種物専門店ではない。専門店だったら、たとえば虚子の「狭き町の両側に在り種物屋」のような店のほうがお馴染みだ。作者がいるのも、そんな小商いの店である。あれこれと物色しているうちに、なんとなく店主の座に目がいった。現代的なレジスターなどはなく、売上金が無造作に箱の中に放り込まれている。と、そこに新品の「手の切れるやうな紙幣(さつ)」があったというのだ。なにか、店の雰囲気にそぐわない。瞬間、そう感じたのである。いろいろな客が来て買い物をするのだから、あって不思議はないのだけれど、とても不思議な気分になった。古くて小さな店には、皺くちゃの古い紙幣がよく似合う。そういった作者の先入観が、あっけなく砕かれた面白さ。老舗の旅館の帳場に、でんとパソコンが置かれているのを見たことがある。やはり一瞬あれっと思った気分は、この句に似ている。『火球』(2001)所収。(清水哲男)




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