気がついたら、忘れずに毎月購読するのは、パソコン関連の雑誌だけになっていた。




2002ソスN4ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0442002

 ポケットの鶯笛に手の触れぬ

                           佐藤和枝

語は「鶯笛(うぐいすぶえ)」で春。上手に吹けば、鶯そっくりの音が出る。よく梅園などで売られているので、梅見の帰路の句かもしれない。懐かしさにかられて買い求め、そっとコートのポケットに収めた。そのうちに買ったことすら忘れてしまっていたのだが、ふと手が触れたときに一瞬何だろうと思い、「ああ、さっき買ったんだっけ」と思い出した。表面的にはそれだけの句だけれど、さりげなく伝えられている作者の心の弾みが心地よい。いま取りだして歩きながら、子供のようにピーピー吹くわけにはいかないが、家に戻ったら吹いてみよう。昔みたいに、うまく吹けるかしら……。楽しみだ。そんなささやかな心の弾みである。名所や観光地に出かけると、このような郷愁を誘う玩具に出くわす。笛の類はもちろん、独楽やら竹とんぼやら達磨落としやら首を振る虎やらと、どういうわけかビー玉だとかビーズ細工なんてのまで売っていたりする。つい買ってしまい、帰宅してからちょっと遊んでみるだけで、いつの間にやらどこかに紛れてしまう。逆に買おうかどうしようかと逡巡して、結局買わずに帰り、やっぱりあのときに買えばよかったと、ひどく後悔することもある。郷愁の玩具。現代の子供が大人になったら、そう呼べるものはあるのだろうか。脱線して、そんなことも思ったことである。「俳句研究」(2002年4月号)所載。(清水哲男)


April 0342002

 手の切れるやうな紙幣あり種物屋

                           大木あまり

語は「種物(たねもの)」ないしは「種物屋」で春。種物は、稲を除く穀類、野菜、草花の種子のこと。四季を通じて種子はあるのだけれど、季題で言う種物は、とくに春蒔きの種子を指している。明るい季節の到来を喜ぶ気持ちからだろう。ところで、一般的に種物屋といえば、薄暗くて小さな店というイメージがある。最近ではビルの中の片隅などに明るいショップも登場しているが、メインが花屋であったりと、種物専門店ではない。専門店だったら、たとえば虚子の「狭き町の両側に在り種物屋」のような店のほうがお馴染みだ。作者がいるのも、そんな小商いの店である。あれこれと物色しているうちに、なんとなく店主の座に目がいった。現代的なレジスターなどはなく、売上金が無造作に箱の中に放り込まれている。と、そこに新品の「手の切れるやうな紙幣(さつ)」があったというのだ。なにか、店の雰囲気にそぐわない。瞬間、そう感じたのである。いろいろな客が来て買い物をするのだから、あって不思議はないのだけれど、とても不思議な気分になった。古くて小さな店には、皺くちゃの古い紙幣がよく似合う。そういった作者の先入観が、あっけなく砕かれた面白さ。老舗の旅館の帳場に、でんとパソコンが置かれているのを見たことがある。やはり一瞬あれっと思った気分は、この句に似ている。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


April 0242002

 開く扉を春光射し入る幕間かな

                           村田 脩

語はむろん「春光(しゅんこう)」だが、似たような季語「春の日」が暖かい日差しを言うのに対して、やわらかく色めいた春の光線を言う。体感よりも心理的な感覚に重点が置かれている。芝居見物の句。前書きを読むと、明治座で山本富士子、林与一らの『明治おんな橋』を見たとある。出演者と題目から推して、華麗で幻想的な舞台が想像される。一幕目が終わり場内に灯がともされると、観客がざわざわと立ち上がり、扉(と)を開けて外に出ていく。舞台に吸い寄せられていた心に、徐々に現実が戻ってくる時間だ。作者も立って表に出るため、扉を押した途端に、まぶしい春の光が射し込んできた。戸外であればやわらかい光も、目を射るように感じられた。「春光射し入る」と字余りの硬い感じが、よくその瞬間を表現している。ここで一挙に現実が戻ってきたわけだが、これも芝居見物の醍醐味だろう。しかも、外は良い天気。舞台の楽しさもさることながら、芝居がはねた後も機嫌よく帰ることができると思うと、楽しさ倍増だ。そんな好日感が、はっしと伝わってくる。そしてまた席に戻り幕が開くと、「春の闇深うたちまち世も暗転」となって、再び舞台に集中するのである……。「俳句研究」(2001年5月号)所載。(清水哲男)




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