マンション改修工事。家中にペンキの匂いが漂っている。たまらんけどシャアない。




2002ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2032002

 かたまつて薄き光の菫かな

                           渡辺水巴

語は「菫(すみれ)」で春。「千葉県鹿野山(かのうざん)での作であり、山上に句碑が立っている。水巴の代表作の一つである」(山本健吉)。鹿野山の菫は知らないが、野生の菫の花の色はほとんどが濃い紫色だ。しかも「かたまつて」咲いているのならば、なおさらに色が濃く見えてしかるべきところを「薄き光の菫」と詠んでいる。作者には、淡い紫色に見えている。しかし、濃紫とはいえ、春の陽光に照らし出された花の色だからこそ、これでよいのだと思った。実際に花の一つ一つは濃いのだけれど、晴天の山上に咲く菫のひとむらはあまりにも小さな存在であり、あまりにも可憐ではかなげだ。そんな見る者の心理を写しての視点からすれば、むしろ濃い色とは見えずに、逆に「薄き光の菫」と見えるほうが自然の勢いというものだろう。無技巧なようでいて、まことに技巧的な句だと思う。苦吟のはての句かどうかなどは関係がないけれど、私などが羨望するのは、対象に心理の光りをすっと当てたように見せられる俳句的方法そのものに対してである。たいしたことを述べているわけではないのだが、この菫はいつまでも心に残る。残るからには、これはやっぱり、たいした俳句の力によるものなのだ。すなわち、掲句もたいした作品なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)他に所載。(清水哲男)


March 1932002

 遅日かな亡き父に啼く鳩時計

                           沼尻巳津子

鳩時計
語は「遅日(ちじつ)」で春。春の日が遅々として暮れかねること。日永(ひなが)と同じだが、日暮れの遅くなるところにポイントが置かれている。したがって、掲句の時刻は夕刻五時くらいか。五時といえば、つい先ごろまでは暗かったのに、まだこんなに明るい。確かめるように、作者は「鳩時計」を振り仰ぐ。子供のときから親しんできた時計だ。そういえば、買ってきたのも、錘(通称「松の実」)を引っ張ってゼンマイを巻いていたのも、いつも父親だった。ふと元気なころの「亡き父」の姿が思い出され、あの鳩はいつだってご主人様たる父親に向けて啼いていたのだし、今でもそうなのだと、その健気さが哀れにも愛(いと)しくも感じられるという句意だろう。これまた、春愁。明るくも暗くも聞こえる鳩時計の音色ゆえに、句は微妙な陰影を帯びている。ところで鳩時計といえば、私のいちばん好きな映画『第三の男』に、オーソン・ウェルズが旧友役のジョセフ・コットンに、こう言って決別を告げるシーンがあった。 "You know what the fellow said: in Italy, for 30 years under the Borgias, they had warfare, terror, murder, bloodshed-- and they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci and the Renaissance. In Switzerland they had brotherly love, 500 years of democracy and peace. And what did that produce? The cuckoo clock. So long, Holly." いまでも心に染み入りますね、このセリフ。映画好きの川本三郎さんが、ひところ宴会芸の得意としてました。ちなみに、鳩時計発祥の地は18世紀のスイス国境に近いドイツです。『背守紋』(1989)所収。(清水哲男)


March 1832002

 菜の花や渡しに近き草野球

                           三好達治

製印象派絵画の趣あり。色と光りと音の交響詩だ。「渡し」は渡し舟の発着する所、いわゆる渡船場(とせんば)である。江戸川の矢切の渡しなどが有名だが、昔は全国いたるところで見受けられた。群生する「菜の花」の黄色と、渡船場の水のきらめき。加えて「草野球」に興ずる人たちの大声や打撃する音。上天気の春の情景を、作者は上機嫌で伝えている。いささか道具立てが揃いすぎている感じもするが、すべてが澄んでいるので嫌みがない。そして、この詩趣に透明な哀しみのフィルターをかけてやれば、たちまちにして三好達治の詩の世界に入ることができる。たとえば「母よ――/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり」(「乳母車」)。あらためて両者を読み比べてみると、詩人がいかに色と光りと音の捉え方に秀でていたかが、よくわかる。とかく詩人の俳句は、たくさんの事柄を詰め込もうとして失敗することが多いのだけれど、掲句もまたたくさんの事柄が詰め込まれているのだけれど、失敗していない理由は、この感覚に拠るものだ。決して、ゴテゴテと塗りたくらないのである。これはもう、天性の感覚というしかないだろう。『柿の花』(1976)所収。(清水哲男)




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