古山高麗雄氏没。私の初めての上司。編集室でのねじり鉢巻き姿を思い出す。合掌。




2002ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532002

 雲呑は桜の空から来るのであらう

                           摂津幸彦

国では、正月(むろん旧暦の)に「雲呑(わんたん)」を食べる風習があるというが、その形といい味といい、どことなく春を思わせる食べ物だ。点心(てんしん)の一つ。食べながら作者は、ふっとこう思った。この想像が、我ながら気に入って、句にしてしまった。句にしてからもう一度読み下してみて、ますます「あらう」の確信度が強まってきた。そんな得意顔の作者の表情には稚気が溢れていて、微笑を誘われる。地上の艶なる桜のあかるみを、空に浮かぶ雲が写している。あの雲が、この雲呑ではないのか。この想像は、悪くない。楽しくなる。何も連想しないで何かを食べるよりも、このようにいろいろと自然に想像力が働いたら、どんなにか楽しいだろうな。そういうところにまで、読者を連れていく……。なんだか無性に雲呑を食べたくなってきたが、あれは単体でさらりと食べるほうが美味い。世に「雲呑麺」なるメニューがある。けれども、ラーメンライスと同じように、ただ腹を満たすためにはよいとしても、どうしてもがっついた感じが先行する。それに私だけの味覚かもしれないが、雲呑と麺とは基本的に相性がよろしくない。食感が、こんがらがってしまうのだ。さて、間もなく桜の季節がやってくる。花見の後には、雲呑をどうぞ。『鸚母集』(1986)所収。(清水哲男)


March 1432002

 子猫ねむしつかみ上げられても眠る

                           日野草城

語は「子猫(猫の子)」で春。猫は春に子を生むことが、最も多いからだとされる。猫好きでないと、こういう句は作らないだろう。この愛くるしさに、冷淡にも「それがどうしたの」と言われても困ってしまう。可愛いから、可愛いのである。作者の猫好きはかなりのものだったようで、病床にすら常に子猫が何匹かいたという目撃者(大野林火)がいるほどだ。離乳直後くらいの子猫は、たしかに「つかみ上げられても」、眠ったまんまのときがある。もっとも、猫は元来が夜行性の動物だから、限りなく自然体にある子猫としては、どうされようとも昼間は眠っているのが本来の生態なのだろう。その子猫が、もう少し大きくなってくると、上野泰が詠んだように「貰はれる話を仔猫聞いてをり」と、可哀想なことになる場面も出てくる。しかし、この句もまた、猫好きだからこその発想だ。哀れにも愛くるしい姿とは、写る人にしか写らない。ところで、掲句は子猫を「つかみ上げる」としている。手で上から一瞬つかみ、後はすくい上げて掌に乗せるという感じなのだろう。相手が子猫だから、首筋をつまみ上げるのとは違うと思うが、一般的に(と言っても、最近の飼育方法には無知だけれど)何故、猫は首筋をつまみ上げるのか。猫には、あれでよいのだろうか。子供の頃に一度だけしか飼ったことのない素人には、よくわからぬままに来てしまった。『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


March 1332002

 斑雪照り山家一戸に来るはがき

                           鷲谷七菜子

語は「斑雪(はだれ)」で春。北陸では春にほろほろと降る雪を指す地方もあるようだが、一般的には、点々と斑(まだら)に残っている春の雪を言う。よく晴れた日には、雪の部分が目にまぶしい。そのまぶしさに、本格的な春の訪れが間近いという喜びがある。句は、そんな日の山腹に家が点在する集落の一情景を詠んでいる。赤い自転車を引っ張って山道を登ってきた郵便配達夫が、とある山家(やまが)に一枚の「はがき」をもたらした。私の田舎でもそうだったけれど、戸数わずかに十数戸くらいの集落では、毎日郵便配達があるわけではない。年賀状の季節を除けば、めったに郵便物など来ないからである。したがつて、集落には郵便受けを備えている家もなかったし、投函する赤い郵便ポストもなかった。配達は手渡しか、留守のときには勝手に戸を開けて放り込んでいく。句では、手渡しだろう。作者のところへ来たのではなくて、その情景を目にとめたのだと思う。もとより文面などはわからないが、受け取った人が発信人を確かめて、すぐにその場で立ったまま読みはじめている情景が目に浮かぶようだ。作者は、この情景全体を「春のたより」としたのである。たった一枚のはがきに、よく物を言わせている。『花寂び』所収。(清水哲男)




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