娘は幼いころ人形を恐がった。女の子ならみんな好きだと思ってた親のショック。




2002ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0332002

 立子忌や岳の風神まだ眠る

                           市川弥栄乃

語は「立子忌」で春。実は、今日三月三日が星野立子の命日である。雛祭の日に亡くなった女性は数えきれないほどおられるだろうが、何も女の子のハレの日に亡くならなくとも……と思えて、ひどく切ない。ましてや、立子にはよく知られた名句「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。切なすぎる。作者はこの切なさを踏まえて、あえて雛飾りから目を外し、遠くの「岳(だけ)」に目をやっている。ここが、掲句の眼目だ。岳には、やがて春の嵐をもたらす「風神」も「まだ」ぴくりともせず静かに眠っている。立子の住んだ鎌倉でも、春一時期の風は強く激しい。彼女の安らかな眠りのためには、三月三日とはいえ、むしろ風神が荒れ狂う日などよりも余程よかったのではなかろうか。静かな眠りにつかれたのではなかろうか。立子を尊敬する作者は、そう自分自身に言い聞かせているのだと読んだ。だいぶ以前に当欄で書いたことだが、私は「○○忌」なる季語は好きではない。使うのなら、身内や仲間内で勝手にやってくれ。いかに高名な俳人の命日であろうとも、こちらはいちいち覚えてはいられないからと。そんな私が掲句について書いたのは、やはり雛祭と女性である立子の忌日が同じであるという哀しさ故である。忌日で思い出すのは、もう一人。宝井其角は、旧暦二月三十日に世を去った。新暦だと、彼の命日は永遠にやってこない理屈である。俳誌「草林」HomePage所載。(清水哲男)


March 0232002

 囀りにきき耳立てるごはん粒

                           寺田良治

語は「囀り(さえずり)」で春。繁殖期の鳥の雄の縄張り宣言と雌への呼びかけを兼ねた鳴き声のこと。いわゆる「地鳴き」とは区別して用いる。これから、だんだん盛んになってくる。さて、掲句で「きき耳」を立てているのは「ごはん粒」だと書いてある。そのままに受け取って、ちっぽけなごはん粒が、いっちょまえなしたり顔をして囀りを聞いている可笑しさ。それだけでも可笑しいけれど、このごはん粒が、実は人の頬っぺたにぽつんとくっついていると読むと、なお可笑しい。だから、実際にきき耳を立てているのは人なのだが、頬っぺたのごはん粒は目立つから、まるでその人といっしょになって一心に聞いているように見えたというわけだ。きき耳を立てるとは注意深く聞くことだけど、その前にもっと注意深くすることがあるでしょう……。何か忘れちゃいませんか。そんな含みもありそうだ。楽しい句だ。子供のころ、ごはん粒をつけている子を見かけると、歌うように「○○ちゃん、お弁当つけてどこ行くの」と言った。見なかったふりをして小声で、遠回しに注意したものだ。「ついてるよ」とストレートに言って恥をかかせるよりも、笑いに溶かしてしまう情のある注意の仕方である。子供にも、粋なところがあった。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


March 0132002

 三椏の花三三が九三三が九

                           稲畑汀子

や三月。何かふさわしい句をと、手当たり次第に本をひっくり返しているうちに、この句に出会えた。これだけたくさん「三」の出てくる句は、他にはないだろう。季語は「三椏(みつまた)の花」で春。枝や幹が和紙の原料になる、あの三椏の黄色い花だ。和紙の需要が減り、近年では観賞用に植えられることが多くなったという。佐藤鬼房に「三椏や英国大使館鉄扉」とあるところを見ると、ヨーロッパなどでは古くから観賞用だったのかもしれない。掲句には、作者の弁がある。「三椏の花を見た時に私は思わず九九を口ずさんでいた。俳句の中に九九を使って数字を並べただけの奇を衒(てら)った表現と思う人があるかもしれないが、私は見たまま感じたままを俳句にしたにすぎないのである。枝が三つに分かれ、その先に花が三つ咲く。九九を通して花の咲き具合を想像して頂ければこの句は成功といえよう。ともかく私はこの句が気に入っている」。いやあ、私も大いに気に入りました。たしかに「三三が九」と咲くのです。九九を覚えたころの子供の心が、思いがけないきっかけから、ひょっこりと顔を出した……。このこと自体が、楽しい春の気分によく通じている。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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