March 012002
三椏の花三三が九三三が九稲畑汀子はや三月。何かふさわしい句をと、手当たり次第に本をひっくり返しているうちに、この句に出会えた。これだけたくさん「三」の出てくる句は、他にはないだろう。季語は「三椏(みつまた)の花」で春。枝や幹が和紙の原料になる、あの三椏の黄色い花だ。和紙の需要が減り、近年では観賞用に植えられることが多くなったという。佐藤鬼房に「三椏や英国大使館鉄扉」とあるところを見ると、ヨーロッパなどでは古くから観賞用だったのかもしれない。掲句には、作者の弁がある。「三椏の花を見た時に私は思わず九九を口ずさんでいた。俳句の中に九九を使って数字を並べただけの奇を衒(てら)った表現と思う人があるかもしれないが、私は見たまま感じたままを俳句にしたにすぎないのである。枝が三つに分かれ、その先に花が三つ咲く。九九を通して花の咲き具合を想像して頂ければこの句は成功といえよう。ともかく私はこの句が気に入っている」。いやあ、私も大いに気に入りました。たしかに「三三が九」と咲くのです。九九を覚えたころの子供の心が、思いがけないきっかけから、ひょっこりと顔を出した……。このこと自体が、楽しい春の気分によく通じている。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男) March 022002 囀りにきき耳立てるごはん粒寺田良治季語は「囀り(さえずり)」で春。繁殖期の鳥の雄の縄張り宣言と雌への呼びかけを兼ねた鳴き声のこと。いわゆる「地鳴き」とは区別して用いる。これから、だんだん盛んになってくる。さて、掲句で「きき耳」を立てているのは「ごはん粒」だと書いてある。そのままに受け取って、ちっぽけなごはん粒が、いっちょまえなしたり顔をして囀りを聞いている可笑しさ。それだけでも可笑しいけれど、このごはん粒が、実は人の頬っぺたにぽつんとくっついていると読むと、なお可笑しい。だから、実際にきき耳を立てているのは人なのだが、頬っぺたのごはん粒は目立つから、まるでその人といっしょになって一心に聞いているように見えたというわけだ。きき耳を立てるとは注意深く聞くことだけど、その前にもっと注意深くすることがあるでしょう……。何か忘れちゃいませんか。そんな含みもありそうだ。楽しい句だ。子供のころ、ごはん粒をつけている子を見かけると、歌うように「○○ちゃん、お弁当つけてどこ行くの」と言った。見なかったふりをして小声で、遠回しに注意したものだ。「ついてるよ」とストレートに言って恥をかかせるよりも、笑いに溶かしてしまう情のある注意の仕方である。子供にも、粋なところがあった。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男) March 032002 立子忌や岳の風神まだ眠る市川弥栄乃季語は「立子忌」で春。実は、今日三月三日が星野立子の命日である。雛祭の日に亡くなった女性は数えきれないほどおられるだろうが、何も女の子のハレの日に亡くならなくとも……と思えて、ひどく切ない。ましてや、立子にはよく知られた名句「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。切なすぎる。作者はこの切なさを踏まえて、あえて雛飾りから目を外し、遠くの「岳(だけ)」に目をやっている。ここが、掲句の眼目だ。岳には、やがて春の嵐をもたらす「風神」も「まだ」ぴくりともせず静かに眠っている。立子の住んだ鎌倉でも、春一時期の風は強く激しい。彼女の安らかな眠りのためには、三月三日とはいえ、むしろ風神が荒れ狂う日などよりも余程よかったのではなかろうか。静かな眠りにつかれたのではなかろうか。立子を尊敬する作者は、そう自分自身に言い聞かせているのだと読んだ。だいぶ以前に当欄で書いたことだが、私は「○○忌」なる季語は好きではない。使うのなら、身内や仲間内で勝手にやってくれ。いかに高名な俳人の命日であろうとも、こちらはいちいち覚えてはいられないからと。そんな私が掲句について書いたのは、やはり雛祭と女性である立子の忌日が同じであるという哀しさ故である。忌日で思い出すのは、もう一人。宝井其角は、旧暦二月三十日に世を去った。新暦だと、彼の命日は永遠にやってこない理屈である。俳誌「草林」HomePage所載。(清水哲男) March 042002 春なれや歩け歩けと歩き神山田みづえ春や春。何となく家にとどまっていられない気持ちになって、さしたる目的もないのに、外出することになる。やはり、春だからだろうか(「春なれや」)。しかも、しきりに「歩け歩け」と「歩き神」が促してくるのである。私も、そうだ。これからのほど良く暖かい季節には、休日の原稿書きの仕事がたまっていても、ついつい「歩き神」の命じるままに、少し離れた公園などに足が向いてしまう。帰宅してからしまったと思っても、もう遅い。ところで、この神様はそんなにポピュラーではないと思うが、平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』に出てくる。「隣の一子が祀る神は 頭の縮れ髪ます髪額髪 指の先なる拙神(てづつがみ) 足の裏なる歩き神」。隣家の娘をからかった歌と解釈されており、髪はちぢれて手先は不器用、おまけにやたらとそこらをほっつき歩くというのだから、当時の女性としてはひんしゅく者だった。しかし、それもこれもが娘に宿った神様のせいだよと歌っているところに、救いはある。すなわち「歩き神」とは、人間を無目的にほっつき歩かせる神というわけで、決して健康のためにウォーキングを奨励するような真面目な神様ではない。しかも足の裏に宿っているというのだから、取りつかれた人はたまったものではないだろう。足が、勝手に動くのだからだ。このことを踏まえて、もう一度掲句に戻れば、何もかもをこのどうしようもない神様のせいにして、「ま、いいか」と歩いている作者の楽しい心持ちがよく伝わってくる。『木語』所収。(清水哲男) March 052002 山刀伐の山田ひそかに蝌蚪育つ鈴木精一郎季語は「蝌蚪(かと)」で春。おたまじゃくし。古体篆字(てんじ)の称。中国の上古に、竹簡に漆(うるし)汁をつけて文字を書いたもの。竹は硬く漆は粘っているので、文字の線が頭大きく尾小さく、おたまじゃくしの形に似ていたところからの名[広辞苑第五版]。「山刀伐(なたぎり)」という言葉は、この句で初めて知ったのだけれど、たぶん山刀で周辺の雑木や薮を伐採することだろうと読んでおく。小さな山あいの田圃、すなわち「山田」の周辺には、春先、雑木や雑草の類が田圃の端に覆いかぶさるように生えかかっているので、これからの農作業には何かと邪魔になる。そこで作者は、それらをなぎ払うようにして伐採しているのだ。森閑とした山田の周辺に響いているのは、作者が山刀を振るっている音のみである。一呼吸入れるために手を休めれば、あたりは静寂そのものとなる。ふと見ると、田圃のそこここの水たまりには、生まれたばかりのおたまじゃくしの群れが、ちらちらと春光のなかに影を引いている。まったき静けさのなかで、音もなく育っている生き物の影を認めて作者は微笑し、再び山刀を振るう。早春の山中での一景。しいんとした田舎の自然の味わいが、よく伝わってくる。少年時代を、私はいま思い出している。『青』(2000)所収。(清水哲男) ★「山刀伐」について数名の読者の方より、芭蕉が奥の細道で難渋した「山刀伐峠」のことではないかとのご指摘がありました。早速手元の百科事典で調べてみましたら、このような記述が……。「山形県北東部、尾花沢市と最上郡最上町の境にある峠。標高510メートル。藩政期には村山地方と盛岡藩領、仙台藩領を結ぶ重要な街道で、1689年(元禄2)芭蕉はこの峠を越えて尾花沢へ入った。現在、「奥の細道山刀伐峠」の石碑があり、峠付近は奥の細道探勝路となっている」。掲句の作者が山形の人であることを考え合わせると、この峠のことを指しているのに、ほぼ間違いはないでしょう。つまり、私が大間違いをしたわけで、まことに申し訳ないことでした。『おくの細道』は何度も読んでいるのに、なぜ気がつかなかったのかと、気になってそちらを当たってみましたら「山刀伐峠」という地名は出ていませんでした。ただ、その峠の剣呑な様子の描写があるだけ。尾花沢へのルートを知る人には地名がわかるのでしょうが、原文だけからはわからないはずです。というようなことで、上記の文章は「誤読記念」としてそのままにしておきたいと思います。ご指摘いただいたみなさま、ありがとうございました。 March 062002 官女雛納め癖なるころび癖岡田史乃季語は「雛納め」で春。飾りつけた日から奇数にあたる日を選ぶというが、そこまで神経を働かせる人がいるのかどうか。蕎麦をそなえ、食べてから納めるとも、ものの本には書いてある。例年のように納めながら、作者ははたと気がついた。どうもこの「官女」は不安定でころびやすいと思っていたら、長年の納め方に無理があって、妙な癖がついてしまっていたのだ。といって、納め癖を強引に直して納めようとするると、今度はどこかがねじ曲がったりするかもしれない。最悪の場合には、身体が損傷してしまうかもしれない。おそらく作者はそう考えて、納め癖のついたままに、いつものように箱に収めたのだろう。情景としては、それだけの話だ。が、句はそれだけの話に終わらせてくれない。作者自身に「ころび癖」があるかどうかは知らないが、もしかすると、あるのかもしれない。だとすれば、ここで作者は苦笑しているはずだ。同様に、掲句は読者に対しても自分ならではの癖について、ちょっと関心を引っ張ってくるようなところがある。悪癖というのではなく、たとえばよく何でもないところでつまずいたり、あちこちに肘や膝をぶつけたりと、不注意からというよりも癖としか言いようのない習性について、読者が苦笑するところまで引っ張ってくる。少なくとも、私は引っ張られてしまった。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男) March 072002 地を潜り銀座の針魚食いにけり高見 勝季語は「針魚(さより)」で春。原句の表記では魚偏に箴。「箴(しん)」は針の意で、下あごが針のように突き出た魚だから、この字になった。残念なことにワープロでは打ち出せないので、作者には失礼ながら二番手の慣習表記に従わざるを得なかった。この魚の名前「さより」を知ったのは、学生時代に読んだ塚本邦雄の短歌だった。これまた表記は別の意味で違っているかもしれないが、記憶に頼って書いておくと「光る針魚頭より食ふ父娶らざれば爽やかに我莫(な)し」というものである。歌の解釈はおくとして、この歌ではじめて知ったがゆえに、私はしばらくの間、さよりは白魚のように小さな魚だと思い込んでいた。が、体長は40センチほど。ええっ、どうやって「頭より食う」んだなんて、後で驚くことになる。鰯や秋刀魚のような大衆魚ではない。といって、そんなに捕れない魚でもない。しかし、学生食堂や定食屋に普通に出てくるような魚でもない。推測だが、淡泊な味に加えて鱧(はも)などと同じように、料理が面倒だからなのではなかろうか。腹が黒く、見かけが汚くなるので、おろしたものは黒い部分をていねいにとる必要がある。だから、東京でいえば銀座あたりのちょいとした洒落た店くらいでしか、なかなか扱わない。椀か天麩羅か、あるいは鮨のネタでか。とにかく作者は銀座の地下の安くはない店で食べたのだが、むろん自慢しているのではない。当の針魚も食べた人間も、出会う場所としてはどこか変だなあと首をかしげているのだ。「けり」とは言ってみたものの、どこか腑に落ちない。いまや庶民的な高級(?!)も、みんな地下に潜り「けり」であるしかないのか。そういう感慨の句だろうと、印象に残る。「広報みたか」(2002年3月3日付・市民文芸欄)所載。(清水哲男) March 082002 桜餅三つ食ひ無頼めきにけり皆川盤水季語は「桜餅」で春。餅を包んだ塩漬けの桜の葉の芳香が楽しい。さて、気になる句だ。桜餅を三つ食べたくらいで、何故「無頼」めいた気持ちになったりするのだろうか。現に虚子には「三つ食へば葉三片や桜餅」があり、センセイすこぶるご機嫌である。無頼などというすさんだ心持ちは、どこにも感じられない。しかし、掲句の作者はいささか無法なことをしでかしたようだと言っているのだから、信じないわけにはいかない。うーむ。そこで両句をつらつら眺めてみるに、共通する言葉は「三つ」である。これをキーに、解けないだろうかと次のように考えてみた。一般にお茶うけとして客に和菓子を出すときには、三つとか五つとか奇数個を添えるのが作法とされる。したがって、作者の前にも三個の桜餅が出されたのだろう。一つ食べたらとても美味だったので、たてつづけに残りの二個もぺろりとたいらげてしまった。おそらく、この「ぺろり」がいけなかったようだ。他の客や主人の皿には、まだ残っている。作者のそれには虚子の場合と同じように、三片(葉を二枚用いる製法もあるから、六片かも)の葉があるだけだ。このときに、残された葉は狼藉の跡である。と、作者には思えたのだろう。だから、美味につられてつつましさを忘れてしまった自分に「無頼」を感じざるを得なかったのだ。女性とは違って、たいていの男は甘党ではない。日頃甘いものを食べる習慣がないので、ゆっくりと味わいながら食べる作法もコツも知らない。しかるがゆえの悲劇(!?)なのではなかろうか。『随處』(1994)所収。(清水哲男) March 092002 荷造りに掛ける体重初うぐひすふけとしこふつう俳句で「初うぐひす」といえば、新年の季語。めでたさを演出するために、飼育している鴬に照明を当てて人為的に鳴かせることを言う。が、掲句では情景からして、初音(はつね)のことと思われる。この春、はじめて聞く鴬の鳴き声だ。「初音かや忌明の文を書く窓に」(高木時子)。最近ではコンテナーや段ボール箱の普及に伴い、あまり荷造りする必要がなくなった。たぶん、作者は資源ごみとして出すために、古新聞を束ねているのではなかろうか。きちんと束ねるためには、膝で「体重」を掛けておいてから、しっかりと縛る。そんな作業の最中に、どこからか初音が聞こえてきた。「春が来たんだなあ」と嬉しくなって、もう一度ちゃんと体重を掛け直した……。体重に着目したところが、なんともユニークだ。情景が、よく見えてくる。私などがこうした情景を詠むとすれば、むしろ紐を縛る手の力に注意が行ってしまうだろう。言われてみれば、なるほど、荷造りとは体重と手の力の協同作業である。納得して、うならされました。初音で思い出したが、京都での学生時代の下宿先の住所は北区小山「初音」町。で、実家のあった東京での住所が西多摩郡多西村「草花」。優雅な地名に親しかったにしては、いまひとつ風流心に欠けている。情けなや。「ホタル通信」(2002年3月8日付・24号)所載。(清水哲男) March 102002 我法学士妻文学士春の月小川軽舟句集の他の句から推察して、作者が学生結婚だったことがうかがわれる。「水仙や学生妻の紅を引く」。したがって、掲句は春三月に二人そろって卒業したことへの感慨である。いや、感慨というよりも偶感と言うべきか。偶感のほうが、春の月には似つかわしい。すなわち、卒業と同時に二人とも「学士」なるものになっちゃったんだと、ふと思ったのだ。そのあたりの可笑しみ。句集の序文で藤田湘子は「近頃の青年はこうしたことをぬけぬけと言うのか」と思ったと書いているが、別に「ぬけぬけ」でも「しゃあしゃあ」でもない。「学士様ならお嫁にやろか」と言われた戦前ならばともかく、戦後のおおかたの大学卒業者には、おのれが学士であるなどと認識している人のほうが珍しいだろう。日本で学士制度が現れるのは1872年(明治五年)の学制からで、学位の一つであったが、86年(明治十九年)の帝国大学発足以後「学士」は称号となり、三年在籍を要件とした。現在の新制大学では四年在籍を履修要件とし、称号扱いである。この称号すらもが、もはや気息奄々の状況なのだから……。夫婦そろっての学士などとは、大昔ならば大変な快挙だと誉めそやされたかもしれないが……と、そんなこともちらりと頭をよぎり、作者は苦笑しているのである。作者の句に至る事情は知らなくても、掲句単体を読んで苦笑する読者も、かなりおられるのではあるまいか。『近所』(2001)所収。(清水哲男) March 112002 春あかつき醒めても動悸をさまらず真鍋呉夫夢で、目が醒(さ)めた。よほど夢の中での出来事が、刺激的だったのだろう。醒めても、なかなか「動悸(どうき)」が「をさまら」ない。春夏秋冬、四季を問わずにこういうことは起きるが、寒からず暑からずの春暁のときであるだけに、夢と現(うつつ)の境界が、いまひとつ判然としないのである。平たく言えば、寝ぼけ状態が他の季節よりも長いので、「ああ、夢だったのか」と自己納得するのに、多少時間がかかるというわけだ。「春の夢」なる季語があるくらいで、この季節の心地よい睡眠はまた夢の温床でもあるらしい。富安風生に「春の夢心驚けば覚めやすし」があるように、動悸の激しくなる夢を見やすいのかもしれない。夢の心理学は知らねども、体験的には納得できるような気がする。つい昨夜も見たばかりで、気まぐれにそのあたりの樹に登り、ふと下を見て気を失いそうになった。いつの間にか、高層ビルの屋上ほどの高いところまで、登ってしまっていたのだ。高所恐怖症としては必死に幹にかじりついたものの、しかし、恐くて一歩も下りられない。「もう駄目だ」と思っているうちに、目が覚めた。覚めても、句のようにしばらくはドキドキしていた。……というような子供じみた夢を作者が見たと思ったのでは、面白くない。ここは、大人の夢から来た動悸だと読まねば。まことに危険で艶っぽい、真に迫った恋の夢から醒めたのだと。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男) March 122002 白木蓮に純白という翳りあり能村登四郎季語は「白木蓮(はくもくれん)」で春。この場合は「はくれん」と読む。落葉潅木の木蓮とは別種で、こちらは落葉喬木。木蓮よりも背丈が高い。句にあるように純白の花を咲かせ、清美という形容にふさわしいたたずまいである。いま、わが家にも咲いていて、とくに朝の光りを反射している姿が美しい。そんな様子に「ああ、きれいだなあ」で終わらないのが、掲句。完璧のなかに滅びへの兆しを見るというのか、感じるというのか。「純白」そのものが既に「翳り(かげり)」だと言う作者の感性は、古来、この国の人が持ち続けてきたそれに合流するものだろう。たとえば、絢爛たる桜花に哀しみの翳を認めた詩歌は枚挙にいとまがないほどだ。花の命は短くて……。まことにやるせない句ではあるが、このやるせなさが一層花の美しさを引き立てている。しかも白木蓮は、盛りを過ぎると急速に容色が衰えるので、なおさらに引き立てて観賞したくもなる花なのだ。「昼寝覚しばらくをりし白世界」、「夏掛けのみづいろといふ自愛かな」、「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく」など、能村登四郎の詠む色はなべて哀しい。『合本俳句歳時記・二十七版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男) March 132002 斑雪照り山家一戸に来るはがき鷲谷七菜子季語は「斑雪(はだれ)」で春。北陸では春にほろほろと降る雪を指す地方もあるようだが、一般的には、点々と斑(まだら)に残っている春の雪を言う。よく晴れた日には、雪の部分が目にまぶしい。そのまぶしさに、本格的な春の訪れが間近いという喜びがある。句は、そんな日の山腹に家が点在する集落の一情景を詠んでいる。赤い自転車を引っ張って山道を登ってきた郵便配達夫が、とある山家(やまが)に一枚の「はがき」をもたらした。私の田舎でもそうだったけれど、戸数わずかに十数戸くらいの集落では、毎日郵便配達があるわけではない。年賀状の季節を除けば、めったに郵便物など来ないからである。したがつて、集落には郵便受けを備えている家もなかったし、投函する赤い郵便ポストもなかった。配達は手渡しか、留守のときには勝手に戸を開けて放り込んでいく。句では、手渡しだろう。作者のところへ来たのではなくて、その情景を目にとめたのだと思う。もとより文面などはわからないが、受け取った人が発信人を確かめて、すぐにその場で立ったまま読みはじめている情景が目に浮かぶようだ。作者は、この情景全体を「春のたより」としたのである。たった一枚のはがきに、よく物を言わせている。『花寂び』所収。(清水哲男) March 142002 子猫ねむしつかみ上げられても眠る日野草城季語は「子猫(猫の子)」で春。猫は春に子を生むことが、最も多いからだとされる。猫好きでないと、こういう句は作らないだろう。この愛くるしさに、冷淡にも「それがどうしたの」と言われても困ってしまう。可愛いから、可愛いのである。作者の猫好きはかなりのものだったようで、病床にすら常に子猫が何匹かいたという目撃者(大野林火)がいるほどだ。離乳直後くらいの子猫は、たしかに「つかみ上げられても」、眠ったまんまのときがある。もっとも、猫は元来が夜行性の動物だから、限りなく自然体にある子猫としては、どうされようとも昼間は眠っているのが本来の生態なのだろう。その子猫が、もう少し大きくなってくると、上野泰が詠んだように「貰はれる話を仔猫聞いてをり」と、可哀想なことになる場面も出てくる。しかし、この句もまた、猫好きだからこその発想だ。哀れにも愛くるしい姿とは、写る人にしか写らない。ところで、掲句は子猫を「つかみ上げる」としている。手で上から一瞬つかみ、後はすくい上げて掌に乗せるという感じなのだろう。相手が子猫だから、首筋をつまみ上げるのとは違うと思うが、一般的に(と言っても、最近の飼育方法には無知だけれど)何故、猫は首筋をつまみ上げるのか。猫には、あれでよいのだろうか。子供の頃に一度だけしか飼ったことのない素人には、よくわからぬままに来てしまった。『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男) March 152002 雲呑は桜の空から来るのであらう摂津幸彦中国では、正月(むろん旧暦の)に「雲呑(わんたん)」を食べる風習があるというが、その形といい味といい、どことなく春を思わせる食べ物だ。点心(てんしん)の一つ。食べながら作者は、ふっとこう思った。この想像が、我ながら気に入って、句にしてしまった。句にしてからもう一度読み下してみて、ますます「あらう」の確信度が強まってきた。そんな得意顔の作者の表情には稚気が溢れていて、微笑を誘われる。地上の艶なる桜のあかるみを、空に浮かぶ雲が写している。あの雲が、この雲呑ではないのか。この想像は、悪くない。楽しくなる。何も連想しないで何かを食べるよりも、このようにいろいろと自然に想像力が働いたら、どんなにか楽しいだろうな。そういうところにまで、読者を連れていく……。なんだか無性に雲呑を食べたくなってきたが、あれは単体でさらりと食べるほうが美味い。世に「雲呑麺」なるメニューがある。けれども、ラーメンライスと同じように、ただ腹を満たすためにはよいとしても、どうしてもがっついた感じが先行する。それに私だけの味覚かもしれないが、雲呑と麺とは基本的に相性がよろしくない。食感が、こんがらがってしまうのだ。さて、間もなく桜の季節がやってくる。花見の後には、雲呑をどうぞ。『鸚母集』(1986)所収。(清水哲男) March 162002 子らの皆東京へ出し種おろし太田土男句を読んで、一瞬むねの内に苦い思いの走る世代は、確実に存在するだろう。1980年(昭和55年)の作。季語は「種おろし」で春。「出し」は「でし」と読ませている。種おろしは苗代に種を蒔くことであり、「種蒔(たねまき)」と同義だ。野菜や花の種を蒔くことは「物種(ものだね)蒔く」と言って、古くから季語的には区別されてきた。それだけ、米作りは大切だったのだ。解釈の必要はあるまい。働き手の「子ら」はみな東京へ出ていってしまい、この春は残った家族だけの寂しい種蒔となった。蒔きながら、東京で「皆」元気にしているかなと気づかう親ならではの思いが滲み出ている。他方、東京へ出た子らも、いまごろは種蒔で大変だなと親の苦労を思いやっている。どこにもそんなことは書いてないけれど、そういう句だ。東京や大阪などの大都会に若者が流出し、父親もまた出稼ぎに行った時代。田舎を出る人のおおかたは、戦前のような立身出世を夢見てではなかった。農業ではお先真っ暗と察知しての若者たちの決意からであり、現金収入を得たいがための父親たちの里離れだった。「三ちゃん農業」と言われ、農作業は「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」の手にゆだねられ……。そもそもの発端は、1961年の「農業基本法」公布にある。端的に言えば、法の真意は小農の切り捨てだった。いまでは育苗箱への種蒔がほとんどだから、まず句のような情景は見られない。しかし、掲句にずきんと反応する人は、依然として多く都会で暮らしている。もとより、そのなかには政治家もいる。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男) March 172002 みちのくの淋代の浜若布寄す山口青邨季語は「若布(わかめ)」で春。日本独特の海草で、北海道東海岸を除き全国的に分布している。「淋代(さびしろ)」は青森県三沢市に属するが、命名の由来は知らねども、なんという淋しげな地名なのだろう。地名だけで、北国の荒涼とした寒村を彷彿させる。その淋代のひっそりとした浜辺には、浅瀬に若布が揺らいでいるばかり。北国に遅い春がやっと到来したのだけれど、光りの明るさゆえになおさら寂寥感が募るという趣だ。ところで、戦前の淋代の浜は、イワシの地引網で大いににぎわったという。それに、飛行機ファンならご存知のように、ここは航空機史上では名高い土地なのである。1931年(昭和六年)アメリカのハーンドン、パングボーン両飛行士による最初の太平洋無着陸横断飛行の出発点となったところだからだ。二人の飛行機野郎は、単葉機「ミス・ヴィードル号」の荷重を軽くするために、飛び立つとすぐに海に車輪を投げ捨てた。胴体着陸覚悟の決死行だ。そして41時間13分後に、シアトル東方のワシントン州ウェナッチ飛行場に無事着陸。冒険は成功した。作者は、こうした史実を承知して詠んでいるはずだ。すなわち「つわものどもが夢の跡」と。しかし、こうしたことを知らなくても、掲句は十分に観賞に耐え得る。多くの歳時記が、若布の例句として掲げている所以だろう。(清水哲男) March 182002 菜の花や渡しに近き草野球三好達治和製印象派絵画の趣あり。色と光りと音の交響詩だ。「渡し」は渡し舟の発着する所、いわゆる渡船場(とせんば)である。江戸川の矢切の渡しなどが有名だが、昔は全国いたるところで見受けられた。群生する「菜の花」の黄色と、渡船場の水のきらめき。加えて「草野球」に興ずる人たちの大声や打撃する音。上天気の春の情景を、作者は上機嫌で伝えている。いささか道具立てが揃いすぎている感じもするが、すべてが澄んでいるので嫌みがない。そして、この詩趣に透明な哀しみのフィルターをかけてやれば、たちまちにして三好達治の詩の世界に入ることができる。たとえば「母よ――/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり」(「乳母車」)。あらためて両者を読み比べてみると、詩人がいかに色と光りと音の捉え方に秀でていたかが、よくわかる。とかく詩人の俳句は、たくさんの事柄を詰め込もうとして失敗することが多いのだけれど、掲句もまたたくさんの事柄が詰め込まれているのだけれど、失敗していない理由は、この感覚に拠るものだ。決して、ゴテゴテと塗りたくらないのである。これはもう、天性の感覚というしかないだろう。『柿の花』(1976)所収。(清水哲男) March 192002 遅日かな亡き父に啼く鳩時計沼尻巳津子季 March 202002 かたまつて薄き光の菫かな渡辺水巴季語は「菫(すみれ)」で春。「千葉県鹿野山(かのうざん)での作であり、山上に句碑が立っている。水巴の代表作の一つである」(山本健吉)。鹿野山の菫は知らないが、野生の菫の花の色はほとんどが濃い紫色だ。しかも「かたまつて」咲いているのならば、なおさらに色が濃く見えてしかるべきところを「薄き光の菫」と詠んでいる。作者には、淡い紫色に見えている。しかし、濃紫とはいえ、春の陽光に照らし出された花の色だからこそ、これでよいのだと思った。実際に花の一つ一つは濃いのだけれど、晴天の山上に咲く菫のひとむらはあまりにも小さな存在であり、あまりにも可憐ではかなげだ。そんな見る者の心理を写しての視点からすれば、むしろ濃い色とは見えずに、逆に「薄き光の菫」と見えるほうが自然の勢いというものだろう。無技巧なようでいて、まことに技巧的な句だと思う。苦吟のはての句かどうかなどは関係がないけれど、私などが羨望するのは、対象に心理の光りをすっと当てたように見せられる俳句的方法そのものに対してである。たいしたことを述べているわけではないのだが、この菫はいつまでも心に残る。残るからには、これはやっぱり、たいした俳句の力によるものなのだ。すなわち、掲句もたいした作品なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)他に所載。(清水哲男) March 212002 鍵ひとつ握らせてゐる花の下今井 聖花見でのスケッチ。「握らせてゐる」というのだから、大人同士の受け渡しではなく、親が子供に鍵をしっかりと握らせているのだろう。まだ、そんなに大きくない子だ。急に体調が悪くなったのなら、親もいっしょに引き揚げるところだが、おそらく子供は退屈しきってしまい、先に帰ると言い出したにちがいない。「握らせてゐる」という所作のなかには、無くさないようにと念を押す気持ち以外にも、このまま一人で帰してよいものかどうかなど、親の逡巡が含まれている。しっかりと握らせることで、その逡巡を立ち切ろうとしている。親の困ったような顔と「だいじょぶだよ」とうなずいている子。しかし、子供もちょっと不安気だ。そんな様子が、目に浮かぶ。家族での行楽には、わがままが顔を出しやすいので、ときどきこういうことが起きる。ましてや歩くばかりの花見ともなれば、子供には弁当を食べることくらいしか面白いこともないのだから、すぐにイヤになってしまうのだろう。しかも、まわりは大人だらけである。そういえば、シクシク泣いている子をよく見かけるのも花見の道だ。さりげないスケッチながら、掲句はそのあたりの人情の機微を的確に捉えている。東京あたりでは、今日花見に繰り出す人々が多そうだが、なかには、きっとこういう親子もいるのでしょうね。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男) March 222002 斯く翳す春雨傘か昔人高浜虚子季語は「春雨」。服部土芳の『三冊子』では、陰暦正月から二月初めに降る雨を「春の雨」とし、二月末から三月にかけての雨を「春雨」として区別している。今ごろから、しばらくの間の季節の雨……。暖かさが増してきてからの艶な感じを「春雨」に見ているわけだ。句の傘は洋傘ではなく、和傘だろう。しっとりとした雨のなかを歩いているうちに、ふと思いついて、粋な「昔人(むかしびと)」はどんなふうに傘をさしていたのだろうかと、いろいろとやってみた。芝居や映画の二枚目を思い出しながら、「斯(か)く翳(かざ)」したのだろうかなどと……。当人が真剣であるだけに、可笑しみを誘われる。その可笑しみを当人も自覚しているところが、なおさらに可笑しい。小道具が傘でなくとも、誰にでもこうした経験の一つや二つはあるだろう。男だったら、たとえば煙草の喫い方や酒の飲み方など、はじめのころにはたいてい誰かの真似をするものだ。私が煙草をやりだしたのは石原裕次郎が人気絶頂のころで、カッコいいなと思って当然のように真似をした。でも、これが何とも難しいのだ。煙草を銜えっぱなしにして、唇の左右にひっきりなしに動かさねばならない。当時はフィルターなしの両切り煙草だから、下手くそなうちは吸い口が唾液でぐしょぐしょになった。それでも、真似しつづけて何とかマスターできたころに登場してきたのが、フィルター付き国産第一号の「ハイライト」で、これだと実に容易にあっけなく唇で煙草を操れた。なあんだ、つまらねえ。と、その時点で真似は中止。おお、懐かしくも愚かなりし日々よ。『五百句』(1937)所収。(清水哲男) March 232002 美しき名を病みてをり花粉症井上禄子季語は「花粉症」で春。といっても、ようやく最近の歳時記に登録されはじめたところで、分類も「杉の花」の一項目としてである。幸いにも、私は花粉症を知らないが、多くの友人知己がとりつかれており、見ているだけで息苦しくも気の毒になる。なかにはアナウンサーもいて、職業柄、これはまさに死活問題。ついこの間も、彼が必死の放送を終えると、気の毒に思ったリスナーからよい医者を紹介したいと善意のファクシミリが届き、診療時間を調べてみたら、どの曜日も彼の仕事時間と重なっていた。「ああ」と、彼は泣きそうな顔で苦笑いを浮かべていた。だから、花粉症の人々にとっては、掲句を観賞するどころか、むしろ腹立たしいと思う人が多いかもしれない。作者が自分のことを詠んだのだとしたら軽度なのだろうが、しかし、他人のことにせよ、「美しき名を病みてをり」には一目置いておきたい気がする。たまたま読んでいた金子兜太の『兜太のつれづれ歳時記』に、関由紀子の「水軽くのんで笑って花粉病」に触れた文章があった。花粉症ではなく「花粉病」だ。「『病』が効いていて、『花粉に病む』などとどこかの美女麗人を想像させてくれる」とあり、掲句の作者と同様に、病名(症名)そのものへ美意識が動く人もいるのだと、妙に感じ入った次第だ。ちなみに、兜太自身も六十代には花粉症に悩まされたと書いてあった。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男) March 242002 花三分睡りていのち継ぐ母に黒田杏子長い間、病臥している母だ。すっかり小さくなった身体を、一日中横たえている。作者には、彼女がひたすら「いのち継ぐ」ためにのみ、睡(ねむ)っているように写っている。季節はめぐりきて、今年も桜が咲いた。母が元気だったころの桜の季節もしのばれて、いっそう悲しい気持ちがつのる。母はもう二度と、みずからの力で桜花を愛でることはないだろう。このときに「三分」の措辞は絶妙である。「二分」でもいけないし、「八分」でも駄目だ。「三分」は母の薄いであろう余命の象徴的表現でもあるので、実際の咲きようが「二分」や「八分」であったとしても、やはり作者は断固として「三分」と詠むのである。詠まねばならない。そして、桜の「三分」は、これからのいのちに輝いていく「三分」。比するに、母の「三分」は、余命をはかなくも保つ灯としての「三分」なのだ。そこには、強く作者の願望もこめられているだろう。この悲しさ、美しさ……。読者の背筋を、何かすうっと流れていくものがある。名句である。「俳句界」(2002年4月号)所載。(清水哲男) March 252002 にぎやかな音の立ちけり蜆汁大住日呂姿季語は「蜆(しじみ)」で春。松根東洋城に「からからと鍋に蜆をうつしけり」があるが、私の知るかぎりでは、蜆のありようを音で表現した句は珍しい。どちらかと言えば、庶民の哀感を演出する小道具にされることが多く、それはそれで納得できるけれど、たしかに蜆を食するには音から入るということがある。「あったりまえじゃん」などと、言うなかれ。蜆の味噌汁の美味さは、この音を含んでこその味であることを再認識させてくれるのが掲句である。いや、作者自身も音の魅力にハッと気がついての作句なのだろう。もう一つ、俳句でしかこういうことは言えないなあ、とも思った。家族そろっての朝餉だろうか。いっせいにシャカシャカと「にぎやかな音」がしていて、明るく気持ちよい。今日一日が、なんとなく良い方向に進みそうな気がしてくる。月曜日の朝は蜆汁にかぎる。そんなことまで思ってしまった。食べ物と音といえば、某有名歌手が食事のときに音を立てることを極度に嫌ったという話がある。だから、蕎麦屋に連れていかれた人たちは大迷惑。音を立てて食べることが許されない雰囲気では、美味くも何ともなかったと、誰かが回想していた。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男) March 262002 一日のどこにも桜とハイヒール坪内稔典後段は、昭和初期のモダン・アートを思わせる。洋髪の美女が、西欧世界ではなく、日本的な情景のなかに憂い顔でたたずんだりしていた絵だ。和洋折衷の哀しき美しさ。当時の新聞写真などを見ると、そんな絵から抜け出たように思われていたのは、たとえば蓄音機を鳴らしていたカフェの女給あたりだろうか。西欧への憧れとドブ板を踏む現実とが、なにやら不思議なハーモニーを奏でていたような……。ハイヒールと花の取り合わせも、同断である。ほろほろと散る桜の樹の下に、ひとりたたずむ(あるいは颯爽と歩いている)ハイヒール姿の女性のシルエット。これが下駄や草履履きやの女性と花との取りあわせだったら、初手からモダンにはなりっこない。その美しさは、日本的情趣のなかにとっぷりと沈みこんでしまう。掲句はそうしたモダンな絵を意識しつつ、しかしそれが「一日のどこにも」と言うのだから、作者はいささかうんざりしている。モダンもオツなものだけれど、氾濫するとなると辟易ものである。モダン感覚にとっては、あくまでもぽつんと静かに、たまたまそんな女性が存在することが重要なのである。近年、伝統的なハイヒールを履く女性は少なくなってきた。が、この句でのハイヒールは、例の厚底サンダルなどを含めてのことなのであり、もはや西欧を意識することもなくお洒落ができるようになった現代女性のパワーに、あっけにとられている図だとも読める。『月光の音』(2001)所収。(清水哲男) March 272002 さくら鯛死人は眼鏡ふいてゆく飯島晴子季語は「さくら鯛(桜鯛)」で春。当ページが分類上の定本にしている角川版『俳句歳時記』の解説に、こうある。「桜の咲くころ産卵のために内海や沿岸に来集する真鯛のこと。産卵期を迎えて桜色の婚姻色に染まることと、桜の咲く時期に集まることから桜鯛という」。何の変哲もない定義づけだが、私は恥ずかしながら「婚姻色(こんいんしょく)」という言葉を知らなかったので、辞書を引いてみた。「動物における認識色の一種で、繁殖期に出現する目立つ体色。魚類・両生類・爬虫類・鳥類などに見られる。ホルモンの作用で発現し、トゲウオの雄が腹面に赤みをおびるなど、性行動のリリーサーにもなる」[広辞苑第五版]。そしてまた恥ずかしながら、人間にもかすかに婚姻色というようなものがあるようだなとも思った。青春ただなかの色合いだ。それにしても、飯島晴子はなんという哀しい詩人だったのだろう。こういうことを、何故書かずにはいられなかったのか。満身に、春色をたたえた豪奢な桜鯛。もとより作者も眼を輝かせただろうに、その輝きは一瞬で、すぐに「死人(しびと)は眼鏡ふいてゆく」と暗いほうに向いてしまう。滅びる者のほうへと、気持ちが動く。しかも、死人は謙虚に実直に眼鏡を拭く人として位置づけられている。句の真骨頂は、この位置づけにありと認められるが、私は再び口ごもりつつ「それにしても……」と、ひどく哀しくなってくる。川端茅舎の「桜鯛かなしき目玉くはれけり」などを、はるかに凌駕する深い哀しみが、いきなりぐさりと身に突き刺さってきた。定本『蕨手』(1972)所収。(清水哲男) March 282002 めんどりよりをんどりかなしちるさくら三橋鷹女季語としては「落花」に分類。「九段界隈 桜みち」(第6号)というPR誌を読んでいたら、随筆家の木村梢が書いていた。この人は、邦枝完二のお嬢さんだ。「昔から、江戸っ子は満開の桜は見なかったといいます。三、四分咲きを見て、それからずっと見ないで、散りぎわに見る……」。いかにも、という感じ。徹底してヤボを嫌えば、そういうことになるのかもしれない。花のはかなさを愛したのだ。掲句もまた、徹底してはかない。はらはらと落花しきりの庭で、放し飼いの鶏たちが無心に餌をついばんでいる。花の白、鶏の白。滅びゆくものと、なお生きてあるもの。この対比だけでも十分にはかない味わいだが、作者はもう一歩踏み込んで、「めんどり」と「をんどり」とを対比させている。等しく飼われて生きる身ではあるけれど、実利的に珍重されるのは断然めんどりの側で、をんどりの役割はただ一つだから、数も少ないし大事にされることもない。もはや無用と判断されれば、情け容赦なく殺されてしまう。作者が認めているのは、どんなをんどりの姿だろうか。降りしきる花びらを浴びながら、じっと目を閉じている姿かもしれない。めんどりよりも毅然としている姿ゆえの「かなし」さが、平仮名表記のやわらかさも手伝って、じわりと胸にひびいてくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男) March 292002 蘖や切出し持つて庭にゐる波多野爽波季語は「蘖(ひこばえ)」で春。木の切り株から若芽が萌え出るのが、蘖だ。「孫(ひこ)生え」に由来するらしい。「切出し」は、工作などに使う切出しナイフのこと。実景だろうが、庭に蘖を認めた作者の手には、たまたま切出しがあったということで、両者には何の関係もない。偶然である。しかし、この「たまたま」の情景をもしも誰かが目撃したとすれば、たちまちにして両者が関係づけられる可能性は大だ。つまり、せっかく萌え出てきた生命を、これから作者が無慈悲にも切り取ろうとしているなどと。そんなふうに、作者のなかの「誰か」が気づいたので、句になったのだ。おそらく、作者は大いに苦笑したことだろう。このあたりを言い止めるところはいかにも爽波らしいが、瞬時にもせよ、もう少し作者の意識は先に伸びていたのかもしれないと思った。すなわち、このときの作者には、本気で若芽を断ち切ろうとする殺意がよぎったということだ。そして、この想像はあながち深読みでもないだろうなとも思った。実際、刃物を手にしていると、ふっとそんな気になることがある。次の瞬間には首を振って正気に戻りはするのだけれど、鉈で薪割りをしていた少年時代には、何度もそんな気分に襲われた。いったい、あれは自分のなかの那辺からわいてくる心理状態なのか。刃物の魔力と総括するほうが気は楽だが、やはり人間本来の性(さが)に根ざしているのではあるまいか。『骰子』(1986)所収。(清水哲男) March 302002 風に落つ楊貴妃桜房のまま杉田久女久女、絶頂期(1932年)の一句。つとに有名な句だ。「楊貴妃桜(ようきひざくら)」は八重桜で、濃艶な色彩を持つ。誰の命名だろうか。かの玄宗の寵愛を一身に集めた絶世の美女も、かくやとばかりに匂い立つ。ネットで調べてみたら、わりにポピュラーな品種で、全国のあちこちで見られるようだ。久女は、かつての大企業・日本製鉄(戦後の八幡製鉄の前身)付属施設の庭で見ている。風の強い日だったのだろう。花びらの散る間もなく、房ごとばさりと落ちてきた。それを、そのまま見たままに詠んでいる。痛ましいと思いたいところだが、しかし不思議なことに、句はそれほどの哀れや無惨を感じさせない。強く的確な写生の力が、生半可な感傷を拒否しているからだろう。この句については、多くの人がいろいろと述べてきた。なかで、ほとんどの人が口を揃えたように久女のナルシシズムを見て取っている。つまり、ここで自分を楊貴妃に擬していると言うのだ。落ちてもなお美しい私というわけだが、どうしてそういう解釈が出てくるのか、私には理解できないところだった。久女は俳壇の伝説的存在ではあるので、そうした伝説が加味されての解釈かとも思っていた。が、最近になって同じ情景を詠んだ次の句を知って、ははあんとうなずけた。「むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず」、これである。掲句の解説みたいな句だ。この句には、たしかに殺された悲劇のヒロインをみずからに擬した気配が漂っている。だから、この句を知ってしまうと、掲句の解釈にもかなり影響してくるだろう。なあんだ、そういうことだったのか。よほど私が鈍いのかと悲観していた。ほっ。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男) March 312002 しやぼん玉西郷公を濡らしけり須原和男季語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。東京の花の名所、上野の山の西郷隆盛の銅像前。家族で花見に来た子供が、盛んにシャボン玉を吹いている。何気なく見ていると、美しい五色の玉が、風の具合で西郷さんに当たっては、ふっと消えていく。大きな西郷像に、束の間小さくて黒く濡れたあとが残る。それを「濡らしけり」と大仰に言ったところが面白い。で、いかめしい西郷さんの顔をあらためて振り仰ぐと、どことなくこそばゆそうだ。うんざりするほどの人、人、人で混雑しているなかでの、即吟かと思われる。花疲れの作者が、思わずも微笑している図。どこにも花見の情景とは書かれてないけれど、花見ででもなければ、子供が西郷公の下でシャボン玉で遊ぶわけがない。たいていの子供は花などにはさして関心がないので、このシャボン玉は親が退屈しのぎにと買い与えたのだろう。ところで花の上野は別格として、各地の「桜まつり」担当者などによく聞くのは、人寄せでいちばん苦労するのが、子供対策だそうだ。桜が咲けば、大人は放っておいても集まってくるけれど、子供はそうはいかない。春休み中なので、子供にサービスをしないと、親も来(られ)なくなってしまう。そこで、子供たちが喜びそうなアトラクションを必死に考える。テレビで人気のキャラクター・ショーを実現するには、半年以上も前に仕込まねばならない。だから、今年の東京のように二週間も開花が早まると、真っ青になる。子供のために仕込んだ芸能契約を反古にできないので、泣く泣くの「桜まつり」となる……。来週末の東京では、あちこちでそんな「葉桜まつり」が見られる。ENJOY !『式根』(2002)所収。(清水哲男)
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