キヨッソーネの浮世絵コレクションが我が町にやってきた。いざ、見に行かむ。




2002ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132002

 三椏の花三三が九三三が九

                           稲畑汀子

や三月。何かふさわしい句をと、手当たり次第に本をひっくり返しているうちに、この句に出会えた。これだけたくさん「三」の出てくる句は、他にはないだろう。季語は「三椏(みつまた)の花」で春。枝や幹が和紙の原料になる、あの三椏の黄色い花だ。和紙の需要が減り、近年では観賞用に植えられることが多くなったという。佐藤鬼房に「三椏や英国大使館鉄扉」とあるところを見ると、ヨーロッパなどでは古くから観賞用だったのかもしれない。掲句には、作者の弁がある。「三椏の花を見た時に私は思わず九九を口ずさんでいた。俳句の中に九九を使って数字を並べただけの奇を衒(てら)った表現と思う人があるかもしれないが、私は見たまま感じたままを俳句にしたにすぎないのである。枝が三つに分かれ、その先に花が三つ咲く。九九を通して花の咲き具合を想像して頂ければこの句は成功といえよう。ともかく私はこの句が気に入っている」。いやあ、私も大いに気に入りました。たしかに「三三が九」と咲くのです。九九を覚えたころの子供の心が、思いがけないきっかけから、ひょっこりと顔を出した……。このこと自体が、楽しい春の気分によく通じている。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


February 2822002

 春月や犬も用ある如く行く

                           波多野爽波

の月はさやけきを賞で、春の月は朧(おぼろ)なるを賞づ。さて、まずは「犬も」の「も」に注目しよう。逆に言えば、作者「も」ということになるからである。朧月に誘われての夜の散歩だ。ぶらぶらと、その辺を歩いている。中秋の名月あたりの宵ならば、そぞろ歩きも通行人には不審に思われないだろう。が、春に月見の習俗はないので、すれ違う人に怪しい徘徊者と誤解される危険性がある。そのことを心得て、作者は人とすれ違うたびに、さも「用ある如く」少し足早になったりするのである。そのうちに、向こうから犬がやってきた。で、すれ違うときに、ひょいと犬の顔を見ると、いかにも分別臭く用ありげな表情で歩いていたと言うのである。さっき人と行きあったときの自分の表情も、きっとあんなだったろうなと思うと、じわりと可笑しさが込み上げてきた。そういう句だ。爽波は「写生の世界は自由闊達(かったつ)の世界である」と言った人。なるほどねと、うなずける。戦後七年目の1952年の作。このころにはまだ、犬が放し飼いにされていたことがわかる。大きくて恐そうな犬が道の真ん中に寝そべっていたりして、子供などはわざわざ回り道をしたものだった。そんな時代もありました。往時茫々たり。ちなみに、今宵の月齢は15.8。ほぼ真ん丸な月が見られる。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


February 2722002

 ゆるやかな水に目高の眼のひかり

                           山口誓子

語は「目高(めだか)」で夏。えっ、なぜ春ではなくて夏なのだろうか。私などは、水ぬるむ頃の小川ですくって遊んだものだから、目高と春のイメージとは固く結びついている。唱歌の「春の小川」にも「♪えびやめだかや 小ぶなの群れに……」とあるではないか。早速、理由を調べてみたら、昔は水鉢などに飼って涼味を楽しんだそうで、季語的には金魚と同じ扱いということのようだ。だから、夏。となれば、俳句に登場する目高は観賞魚と思ったほうがよいわけだが、掲句では明らかに観賞用の目高ではない。「ゆるやかに」流れる水という表現からしても、夏というよりも、春の感じが濃い。春になってやっと出てきてくれた目高だからこそ、「眼のひかり」が生きてくる。小さな生き物の眼に光りを感じる心は、春出立の希望や決意のそれと照応している。どう考えても、夏ではない。早春の句と読むべきだろう。また余談になるが、目高と遊んでいたころに、生きたまま飲み込むのを得意とする友人がいた。蛇をつかんで振り回すのと同じで、男の子の勇気の証しだった。私にはとても飲み込めなかったが、後で知ったところによると、飲み込む習俗は古くから大人の世界で行われていたそうである。目高の眼が大きいところから眼がよくなるなど、呪術的な目的があったという。これも全国どこにでも目高がいた頃の話で、いまや目高は絶滅危惧種となってしまった。いまどき三匹も飲み込んだら、訴えられてしまうかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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