ドタバタ五輪終了。主催国の露骨な国威宣揚意識をEU諸国は冷笑していたのでは。




2002ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622002

 組合ひし棺のをとこや春の雨

                           平出 隆

別式での句。「春の雨」が降っている。「棺」に横たわっている「をとこ」とは、作者とも私とも親しかった河出書房の同僚の飯田貴司君である。昨年の春(三月二日)に、六十一歳で亡くなった。棺を前にして参列者の思うことは、むろんさまざまだろう。ある人は、故人との交流の諸場面を走馬灯のように思い出すという。だが、私の場合はどういうわけか走馬灯とはいかないで、長いつきあいにもかわらず、ただ一つの些細な場面に限られてしまうようだ。詩の仲間内で言えば通夜にしか行けなかったが、辻征夫のときもそうだったし、加藤温子のときもそうだった。その他の人の通夜や葬儀でも、ほとんど同様だった。どうしてこんな時にそんなことを思い出すのかと思うほどに、他愛ないことを思い出してしまうのだ。そのように、詩人・平出隆も酒の上でのいきがかりから取っ組み合いになったことを思い出している。つまり、生きていた死者との体感が生臭くよみがえってきたことだけを詠んでいる。句を披歴した追悼文のなかで、作者は故人の体感を「重いなあ」と思ったと書いている。追悼句としては、まことに素直にも正直であり、しかるがゆえに出色だ。よい句だ。悲しい句だ。人と人との別れの悲しさは、故人の社会的な功績などとはたいてい無縁なのであって、例えばこの「重いなあ」に尽きるのだろうと、あらためてしんみりとしたことである。『追悼・飯田貴司』(2002・「追悼・飯田貴司」の会・藤田三男代表編・私家版)所載。(清水哲男)


February 2522002

 春星へ電光ニュースのぼりゆく

                           浦川聡子

の星は、やわらかい夜気に潤んだように見える。対するに、「電光ニュース」の光る文字はくっきりと鮮やかだ。それが上へ上へとのぼってゆき、次から次へと消えていってしまう。断ち消えると言うべきか。一方、上空の星はといえば、ぼおっとしているけれど、いつまでもしずかに灯っている。この対比への着目が面白い。と同時に、句の上へ上へとのぼってゆく意識は、ものみな上昇志向を帯びてくる春という季節にぴったりだと思った。春は、万物が上を向く季節なのである。そういえば、坂本九の歌に「上を向いて歩こう」があった。春の歌だ。この歌のように、ものみな上を向く季節であるがゆえに、逆に精神的には下を向くことにもなったりするのである。ひとり取り残されたような孤独感に襲われたりする。昔から春愁などと言い、人間はまことに複雑怪奇な生き物だ。したがって、句の情緒的な受け取りようは、さまざまに別れるだろう。ところで、電光ニュースの一文字は、200個ほどの白熱灯(20-30ワット)で表示されている。パソコンで言えば、素朴なドット文字や絵のそれと同じだ。最近のウエブデザイナーの世界では、このドット表示が見直されているらしい。光りを組みあわせて文字や絵を表示しようというとき、方法的にはともかく、原理的には誰もが思いつく方法だ。が、原点には原点にしかないパワーがあり情熱があり、しかるがゆえの魅力があるということ。『クロイツェル・ソナタ』(1995)所収。(清水哲男)


February 2422002

 波羅蜜多体育館にしやぼん玉

                           摂津幸彦

語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。いかにも春らしい景物だ。「波羅蜜多(はらみった)」は仏教用語、「波羅蜜」とも言う。「宗教理想を実現するための実践修行。完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃・ねはん)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。通常、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を立てるが、十波羅蜜を立てることもある [広辞苑第五版] 」。さて、私などはいい加減に「体育館」と付きあっただけだが、考えてみれば、あそこもまた心身の修業道場である。運動能力の高い友人たちは、みな真剣にトレーニングに励んでいた。何が面白くて、そんなに苦しい練習を繰り返しているのか。半ば冷笑していたけれど、彼らには波羅蜜多の苦しさと同時に恍惚の境地もあったようだと、今にして思われる。そんな修業の場に、開け放った窓からふわりふわりと「しやぼん玉」が舞い込んできた。こちらは、難行苦行などとは無縁の気楽そうな軽さで浮遊している。作者は、まずはこの対比ににやりとしたはずだ。だが、待てよ。波羅蜜多の人は、まだ彼岸への過程に遠くあるわけで、一方の軽々と浮遊する物体は、ほとんど彼岸に到達しようとしているのではなかろうか。どちらが完成熟達の域にあるのかといえば、誰が見てもしやぼん玉のほうである。そして、間もなくしやぼん玉はふっと姿を消すだろう。彼岸に到達するのだ。のどかな春の日の体育館の何でもない光景も、摂津幸彦の手にかかると、かくのごとくに変貌してしまう。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます