外務省をめぐってのやりとりに、敗戦直後のホームルームを思い出した。そっくりだ。




2002ソスN2ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2122002

 週刊新潮けふ發賣の土筆かな

                           中原道夫

聞の地方面に、そろそろ「土筆(つくし)」の写真が春の便りとして載るころだ。筆の形に似ているので、土筆と言う。なるほど。作者は、実際にこの春はじめての土筆を発見したのだろう。ぽっと気持ちが温まった耳に、例の子供の声によるコマーシャル「しゅうかんしんちょうは、きょうはつばいで-す」が響いてきたのか、ふとよみがえってきたのか。ともかく、土筆と子供の声で春の訪れの感じが増幅されたというわけだ。発売された「週刊新潮」本体とはほぼ無関係に、コマーシャルを持ってきたところが面白い。「ほぼ無関係」と言うのは、たぶん作者は子供の声のほかに、あの谷内六郎の表紙絵もイメージしているに違いないと思ったからである。土筆と子供と、そして谷内六郎の絵。これだけ揃えば、まさに「春が来た」ではないか……。創刊(1956)時のスタッフに聞いた話だと、表紙絵を描く人は、九分九厘「ベビーギャング」などの漫画家・岡部冬彦に決まっていたのだという。それが、土壇場で谷内六郎に変更になった。依頼に行った編集者が、画稿料として「これくらいで如何でしょう」と片手を広げて見せたところ、即座に嬉しそうにうなずいた。編集者は五万円のつもりだったのだが、この仕事で一世を風靡することになる抒情画家は、てっきり五千円だと思ったのだった。『歴草(そふき)』(2000)所収。(清水哲男)


February 2022002

 料峭のこぼれ松葉を焚きくれし

                           西村和子

語は「料峭(りょうしょう)」で春。さて、お勉強。「料」には撫でるないしは触れるの意味があり、「峭」は山がとがっている様子から厳しさの意味があるから、厳しいものが身体に触れること。すなわち、春の風がまだ肌を刺すように冷たく感じられるさまを言った。「春寒(はるさむ)」とほぼ同義であるが、そのうちでもいちばん寒い状態を指すのだと思われる。寺の境内あたりだろうか。作者は何かの用事で出かけ、表で誰かを待つ必要があった。早春の風が冷たい日である。寒そうに立っている作者の姿を見かねたのか、周辺を掃除している人が、掃き寄せた「こぼれ松葉」で焚火をしてくれた……。その種の情景が思い浮かぶ。松葉は、おそらくとがった「峭」にかけてあるのではないか。そんな松葉の焦げる独特な匂いが立ちのぼるなかで、作者はその人に感謝している。松葉を燃やしてもあまり暖まるわけではないけれど、その人の温情に心温まっているのだ。ところで、句の「こぼれ松葉」に誘われて、好きな佐藤春夫の詩「海べの戀」を思い出し、久しぶりに読むことになった。最終連は、次のようである。「入り日のなかに立つけぶり/ありやなしやとただほのか、/海べのこひのはかなさは/こぼれ松葉の火なりけむ。」。松葉を焚く煙や火は「ありやなしや」と、まことにはかないことが、この詩からもよくわかる。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1922002

 苗札のたてこんでゐる幼稚園

                           高野ゆり子

語は「苗札(なえふだ)」で春。草花や野菜の種を蒔き、その品種や蒔いた月日などを書いて立てておく木札のこと。花の絵などが印刷された種袋を、そのまま苗札にしているのもよく見かける。掲句では場所が「幼稚園」だから、年長組の子供たちが読めるように「ぱんじい」だとか「さくらそう」だとかと、大きな平仮名で書いてあるのだろう。それらが、ごちゃごちゃと「たてこんでゐる」。この「たてこんでゐる」という表現が、実によく効いているなと思った。見たまま、そのままには違いない。けれど、苗札のたてこみようが、元気な園児たちの無秩序な動きにも照応しているようでほほ笑ましい。これがたとえば小学校だったりすると、見たままではあるとしても、句の魅力はがたっと落ちてしまうだろう。とかく自分勝手な動きをする幼児たちもまた、幼稚園に「たてこんでゐる」感じがするというわけだ。少子化のあおりをまともにくって、最近の幼稚園経営は非常に苦しいと聞く。そのうちにだんだんたてこまなくなってきて、この句などは、幼稚園の良き時代を振り返る際のよすがになってしまうのかもしれない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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