amazonに頼んでおいた『少年画報大全』が届いた。目当ては本体ではなく、附録の「少画」の前身「冒険活劇文庫」創刊号(1948)だ。たったの32ページ。表紙は永松健夫・画「黄金バット」。貧乏で買ってもらえなかった。やっと手に入れた。万歳。半世紀以上もかかった。




2002ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022002

 料峭のこぼれ松葉を焚きくれし

                           西村和子

語は「料峭(りょうしょう)」で春。さて、お勉強。「料」には撫でるないしは触れるの意味があり、「峭」は山がとがっている様子から厳しさの意味があるから、厳しいものが身体に触れること。すなわち、春の風がまだ肌を刺すように冷たく感じられるさまを言った。「春寒(はるさむ)」とほぼ同義であるが、そのうちでもいちばん寒い状態を指すのだと思われる。寺の境内あたりだろうか。作者は何かの用事で出かけ、表で誰かを待つ必要があった。早春の風が冷たい日である。寒そうに立っている作者の姿を見かねたのか、周辺を掃除している人が、掃き寄せた「こぼれ松葉」で焚火をしてくれた……。その種の情景が思い浮かぶ。松葉は、おそらくとがった「峭」にかけてあるのではないか。そんな松葉の焦げる独特な匂いが立ちのぼるなかで、作者はその人に感謝している。松葉を燃やしてもあまり暖まるわけではないけれど、その人の温情に心温まっているのだ。ところで、句の「こぼれ松葉」に誘われて、好きな佐藤春夫の詩「海べの戀」を思い出し、久しぶりに読むことになった。最終連は、次のようである。「入り日のなかに立つけぶり/ありやなしやとただほのか、/海べのこひのはかなさは/こぼれ松葉の火なりけむ。」。松葉を焚く煙や火は「ありやなしや」と、まことにはかないことが、この詩からもよくわかる。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 1922002

 苗札のたてこんでゐる幼稚園

                           高野ゆり子

語は「苗札(なえふだ)」で春。草花や野菜の種を蒔き、その品種や蒔いた月日などを書いて立てておく木札のこと。花の絵などが印刷された種袋を、そのまま苗札にしているのもよく見かける。掲句では場所が「幼稚園」だから、年長組の子供たちが読めるように「ぱんじい」だとか「さくらそう」だとかと、大きな平仮名で書いてあるのだろう。それらが、ごちゃごちゃと「たてこんでゐる」。この「たてこんでゐる」という表現が、実によく効いているなと思った。見たまま、そのままには違いない。けれど、苗札のたてこみようが、元気な園児たちの無秩序な動きにも照応しているようでほほ笑ましい。これがたとえば小学校だったりすると、見たままではあるとしても、句の魅力はがたっと落ちてしまうだろう。とかく自分勝手な動きをする幼児たちもまた、幼稚園に「たてこんでゐる」感じがするというわけだ。少子化のあおりをまともにくって、最近の幼稚園経営は非常に苦しいと聞く。そのうちにだんだんたてこまなくなってきて、この句などは、幼稚園の良き時代を振り返る際のよすがになってしまうのかもしれない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1822002

 汽笛一声ヒヨコが咲きぬヒヨコが

                           鳴戸奈菜

のため「猫の子」(春)や「鴉の子」(夏)などのように、「ヒヨコ」も季語になっているのかなと調べてみたが、季語ではなかった。鶏には、とくに繁殖期などはないのだろうか。子供の頃、三十羽ほどの鶏の世話をしていたくせに、まったく覚えていない。でも、あの小さくてふわふわとした愛らしい姿は、なんとなく春を想わせますね。この句、私は実景として読んだ。場所はたとえば、SLが常時走っていたころの山口線は無人駅近辺の農家の庭先だ。今でもあると思うが、駅と庭とが地続きになっている。庭では、たくさんのヒヨコたちが放し飼いにされている。のどかな春昼。そこに突然、発車合図の「汽笛一声」だ。驚いたのなんの。ヒヨコたちは、四方八方にめちゃくちゃに走り回ることになる。黄色い集団が、一斉にぱあっと四散するのである。その様子は、まさに「ヒヨコが咲きぬ」なのだ。下五(字足らずだが、空白の一字が埋め込まれている)で、もう一度「ヒヨコが」と言ったのは、ヒヨコが「咲く」と直感的に見えた自分の感覚に対する再確認である。本当に「咲く」んだよ、ヒヨコは……、と。センス抜群。ヒヨコには気の毒ながら、楽しくも素晴らしい句です。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)




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