友人が亡くなる直前の田中一光から貰ったシャンペンを飲んだ。ただそれだけのお話。




2002ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922002

 苗札のたてこんでゐる幼稚園

                           高野ゆり子

語は「苗札(なえふだ)」で春。草花や野菜の種を蒔き、その品種や蒔いた月日などを書いて立てておく木札のこと。花の絵などが印刷された種袋を、そのまま苗札にしているのもよく見かける。掲句では場所が「幼稚園」だから、年長組の子供たちが読めるように「ぱんじい」だとか「さくらそう」だとかと、大きな平仮名で書いてあるのだろう。それらが、ごちゃごちゃと「たてこんでゐる」。この「たてこんでゐる」という表現が、実によく効いているなと思った。見たまま、そのままには違いない。けれど、苗札のたてこみようが、元気な園児たちの無秩序な動きにも照応しているようでほほ笑ましい。これがたとえば小学校だったりすると、見たままではあるとしても、句の魅力はがたっと落ちてしまうだろう。とかく自分勝手な動きをする幼児たちもまた、幼稚園に「たてこんでゐる」感じがするというわけだ。少子化のあおりをまともにくって、最近の幼稚園経営は非常に苦しいと聞く。そのうちにだんだんたてこまなくなってきて、この句などは、幼稚園の良き時代を振り返る際のよすがになってしまうのかもしれない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1822002

 汽笛一声ヒヨコが咲きぬヒヨコが

                           鳴戸奈菜

のため「猫の子」(春)や「鴉の子」(夏)などのように、「ヒヨコ」も季語になっているのかなと調べてみたが、季語ではなかった。鶏には、とくに繁殖期などはないのだろうか。子供の頃、三十羽ほどの鶏の世話をしていたくせに、まったく覚えていない。でも、あの小さくてふわふわとした愛らしい姿は、なんとなく春を想わせますね。この句、私は実景として読んだ。場所はたとえば、SLが常時走っていたころの山口線は無人駅近辺の農家の庭先だ。今でもあると思うが、駅と庭とが地続きになっている。庭では、たくさんのヒヨコたちが放し飼いにされている。のどかな春昼。そこに突然、発車合図の「汽笛一声」だ。驚いたのなんの。ヒヨコたちは、四方八方にめちゃくちゃに走り回ることになる。黄色い集団が、一斉にぱあっと四散するのである。その様子は、まさに「ヒヨコが咲きぬ」なのだ。下五(字足らずだが、空白の一字が埋め込まれている)で、もう一度「ヒヨコが」と言ったのは、ヒヨコが「咲く」と直感的に見えた自分の感覚に対する再確認である。本当に「咲く」んだよ、ヒヨコは……、と。センス抜群。ヒヨコには気の毒ながら、楽しくも素晴らしい句です。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)


February 1722002

 蓬摘み摘み了えどきがわからない

                           池田澄子

語は「蓬(よもぎ)」で春。世の中には、言われてみれば「なるほどねえ」ということがたくさんある。掲句も、その一つだ。ひな祭りに供えるためか、搗き込んで蓬餅にするためか。とにかく蓬を摘んでいるのだが、さて、どこで摘むのを「了(お)え」たらよいのだろう。ふとそう思ったら、「わからな」くなっちゃったと言うのである。たいていの人は適当に摘んでいるから、こんなことは思いもしない。でも、何の因果か、ひとたびこの悩ましい疑問に捕えられたら最後、誰だって立ち往生せざるを得なくなる。物量的にも時間的にも、いかに日頃の私たちの「適当」な作業が、難しい問題を「適当に」さばいているかが逆照射されていて、面白い。句の疑問は、蓬摘みだけではなくて、日常のあっちこっちに転がっている。だから、句が生きてくる。早い話が、他ならぬこの拙文だ。どこで書き了えればよいのか、わからない。いつもは適当に終わっているのだが、べつに「適当」に基準があるわけじゃないので、生命あるかぎり書きつづけることも可能だし、今すぐに止めてもよいわけだ。「じゃあ、どうするのよ」と、掲句がにらんでいる。しかし、私にはまさに「わからない」としか言いようがない。困ったことになりにけり。ああ、とんでもない句に出会ってしまった……。と、適当に了えておきます。でもねえ……。と、まだ未練がましく後を引いている。『池田澄子句集』(1995)所収。(清水哲男)




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