昨日はたくさんの方々から暖かいお言葉を頂戴いたしました。ありがとうございました。




2002ソスN2ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1622002

 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

                           日野草城

語は「春の灯(春燈)」。明るく華やいだ感じを言う。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。思うに、古今俳人は数あれど、草城ほどに女人礼賛の句を多く作った俳人も珍しいのではあるまいか。第一句集『花氷』のしょっぱなに「うつくしきひとを見かけぬ春浅き」があり、新婚初夜を即吟的に詠んだかのような連作「ミヤコ ホテル」はあまりにも有名だ。したがって、この句も偶発的にできたのではなく、常に女性美に執し続けている心から生まれたものだと思う。もとより、句の心根にあるのはお世辞でも何でもない。心底賛嘆しているがゆえの嫌みの無さから、そのことがわかる。関根弘に、奥さんが美容院に行ってきたことに気がつかず、大いに不機嫌にさせてしまったという出だしの詩があった。そこで詩人は女の自尊心に「てやんでえ」と啖呵を切るのであるが、草城が読んだら卒倒しそうな作品である。哀しいことに、気がつかないという点で、私は関根さんに近い。その意味で、草城句集を開くたびにコンプレックスを感じてしまうのだが、どうにもなるものではない。読者諸兄におかれては、如何なりや。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


February 1522002

 春いくたび我に不落の魔方陣

                           清水哲男

生日には、自作を載せるならわし。と言っても、自分勝手に決めたこと。お目汚しですみません。「魔方陣(まほうじん)」は、n×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数の和も一定になるようにしたもの。nが3なら三方陣、nが4なら四方陣というように呼ぶ。三方陣には、「憎し(294)と思う七五三(753)、六一八(618)は十五(15)なりけり」などの覚え歌がある。中学生の頃、このnをどんどん増やして解くのに夢中になった。n方陣では「n(n自乗+1)/2」が答えだなんてことは知らないので、憎しも憎し、ひたすら勘を頼りに解いていくのだから大変だ。それだけに、解けたときの心地よさったらなかった。そんなことをふと思い出して、二年前の誕生日を迎えるにあたって作った句。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねてみても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ……と。自嘲気味。「不落」は難攻不落のそれのつもりだ。物心がついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神様が気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。「64」。(清水哲男)


February 1422002

 肝油噛みし頃が初恋黄水仙

                           守屋明俊

語は「黄水仙(きずいせん)」で春。単に「水仙」なら冬。野生だと、それぞれの花期が違うからだろう。そう言えば、子供の頃にはよく「肝油(かんゆ)」を飲まされたっけ。一億総栄養失調時代。ビタミン(肝油はAとDを含む)不足を補うために、たしか学校で配られたような記憶がある。正直言って、飲みにくかった。球を丸ごと飲めないので噛むことになるのだが、噛むと生臭い液体が口中にひろがって不味かった。そりゃそうだ。後で知ったのだけれど、あれはマダラやスケソウダラの内蔵を加工したものだそうである。さて「初恋」の思い出と言えば、普通は甘酸っぱいものと相場が決まっているようなものだが、掲句は不味い肝油を持ちだしてきて、読者をハッとさせる。肝油の不味さが、遠い日の思い出にすっとリアリティを添えている。昔の自分を美化していないからこそ、浮かんでくるリアリティなのだ。と言うといささか大袈裟になるが、当時を振り返っての軽い自嘲の心を肝油に込めたのだろう。これがたとえば飴玉だったりしたら、それこそ甘い句になってしまう。しかし、もちろん相手については、永遠に美化の対象でありつづけなければならない。すなわち、思えば「黄水仙」のように明るく清々しい女性であったと……。いまごろ、どうしているだろうか。作者の目の前で、黄水仙が揺れている。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




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