It's my birthday. Let's sing "When I'm Sixty-Four" togethers. Vielen Dank !




2002N215句(前日までの二句を含む)

February 1522002

 春いくたび我に不落の魔方陣

                           清水哲男

生日には、自作を載せるならわし。と言っても、自分勝手に決めたこと。お目汚しですみません。「魔方陣(まほうじん)」は、n×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数の和も一定になるようにしたもの。nが3なら三方陣、nが4なら四方陣というように呼ぶ。三方陣には、「憎し(294)と思う七五三(753)、六一八(618)は十五(15)なりけり」などの覚え歌がある。中学生の頃、このnをどんどん増やして解くのに夢中になった。n方陣では「n(n自乗+1)/2」が答えだなんてことは知らないので、憎しも憎し、ひたすら勘を頼りに解いていくのだから大変だ。それだけに、解けたときの心地よさったらなかった。そんなことをふと思い出して、二年前の誕生日を迎えるにあたって作った句。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねてみても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ……と。自嘲気味。「不落」は難攻不落のそれのつもりだ。物心がついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神様が気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。「64」。(清水哲男)


February 1422002

 肝油噛みし頃が初恋黄水仙

                           守屋明俊

語は「黄水仙(きずいせん)」で春。単に「水仙」なら冬。野生だと、それぞれの花期が違うからだろう。そう言えば、子供の頃にはよく「肝油(かんゆ)」を飲まされたっけ。一億総栄養失調時代。ビタミン(肝油はAとDを含む)不足を補うために、たしか学校で配られたような記憶がある。正直言って、飲みにくかった。球を丸ごと飲めないので噛むことになるのだが、噛むと生臭い液体が口中にひろがって不味かった。そりゃそうだ。後で知ったのだけれど、あれはマダラやスケソウダラの内蔵を加工したものだそうである。さて「初恋」の思い出と言えば、普通は甘酸っぱいものと相場が決まっているようなものだが、掲句は不味い肝油を持ちだしてきて、読者をハッとさせる。肝油の不味さが、遠い日の思い出にすっとリアリティを添えている。昔の自分を美化していないからこそ、浮かんでくるリアリティなのだ。と言うといささか大袈裟になるが、当時を振り返っての軽い自嘲の心を肝油に込めたのだろう。これがたとえば飴玉だったりしたら、それこそ甘い句になってしまう。しかし、もちろん相手については、永遠に美化の対象でありつづけなければならない。すなわち、思えば「黄水仙」のように明るく清々しい女性であったと……。いまごろ、どうしているだろうか。作者の目の前で、黄水仙が揺れている。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


February 1322002

 菜の花畑扉一枚飛んでいる

                           森田緑郎

渡すかぎり一面の「菜の花畑」。日本では多く水田の裏作として栽培されていたが、最近では見かけなくなった。まだ、どこかにあるのだろうか。「菜の花畑に入り日薄れ」と歌われる『朧月夜(おぼろづきよ)』は1914年(大正3)の小学校唱歌。作詞者の高野辰之は長野県の出だ。昨年、ドイツに住む娘が、走行中の車から撮影して送ってくれた写真には唸らされた。ヨーロッパのどこの国かは忘れたが、とにかく行けども行けども黄色一色、黄色い海なのだ。あれほどの黄色の中に埋もれてまじまじと眺めやれば、掲句のようなイリュージョンもわいてくるに違いない。「いちめんのなのはな」に牧歌性を認めつつも、ついには「やめるはひるのつき」と病的なイメージを描いたのは山村暮鳥だった。どこからか「扉一枚」が吹っ飛んできて、上空に浮かんで走っている。どこまで飛んでいくか。しかし、どこまで飛んでも、やがては落ちてくる。そこらへんの菜の花をなぎ倒すようにして、物凄い速さで落下してくるだろう。そんな恐怖感も含まれているのではなかろうか。この句には英訳がある。「Field of flowering rape--/one door sailing in the sky.」。『多言語版・吟遊俳句2000』(2000)所載。(清水哲男)




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