雪印の労働者管理は考えられないか。そうなれば世間の見方も変わるはずだ。組合はあるんだろ。




2002ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722002

 冴え返る小便小僧の反り身かな

                           塩田俊子

語は「冴(さ)え返る」で春。暖かくなりかけて、また寒さがぶりかえしてくること。暖かい日の後だけに、余計に身の引き締まる感じがする。その寒さを誰にもわかってもらえるように表現するには、自分の体感以外の他の何かに取材しなければならない。暖かいときにはいかにも暖かそうな感じに写り、寒くなればまことに寒そうだという客観的な対象が必要だ。そうでないと、ただ「おお寒い」で終わってしまって、冴え返る感じは伝わらない。真冬と同じことになる。その意味から、掲句の作者が対象に「小便小僧」を選んだときに、すでに句はなったというべきか。あのおおらかな真っ裸の幼児の銅像は、たしかに寒暖の差によって表情が変わって見える。裸の姿が、見る者の肌と体感を刺戟してくるからだろう。しかも、小僧は「反り身」だ。人間「反り身」になるときには、たとえ威張る場合にせよ、当人の懸命さを露出する。だからなおさらに、句の小僧が冴え返った寒さに耐えていると写るのだ。以下余談。真夏だったが、一度だけブリュッセルで元祖・小便小僧を見たことがある。イラストレーターの友人と二人で、パリからアムステルダムを鈍行列車で目指す途中、気まぐれにブリュッセル駅で降りちゃった。で、見るなら「小便小僧だな」ということになったが、さて、西も東もわからない。ガイドブックなんて持ってない。おまけに言葉もしゃべれない。折よく通りかかった警官に、イラストレーターが得意の絵を描いて差し出したところ、彼はたちまち微笑した。「ついてこい」とばかりにウインクしたから、ついて行った。「ここだ」と彼が指さして再びウインクしたので、思わず英語で礼を述べた。そしたら、そこはトイレなのでした。……という「冴えない」実話は、もう何度か書いたことである。『句集すみだ川』(金曜句会合同句集・2002)所収。(清水哲男)


February 0622002

 芹の水少年すでに出で発ちぬ

                           山口和夫

語は「芹(せり)」で春。多く湿地や水中に生え、春の七草の一つである。私の田舎でも小川に生えていて、芹というと清らかな水の流れといっしょに思い出す。早春の水はまだ冷たく、その冷たさゆえに、ますます水は清く芹は鮮やかな色彩に写った。そして、その「芹の水」はいつまでも同じ様子で残り、そこに影を落としていた「少年」は「すでに」存在しないと、句は言うのである。このときに少年は作者自身のことでもあるが、他の「出で発」っていった少年をすべて含んでいる。田舎とは、いつだって少年たちが「すでに出で発ち」、彼らの残像が明滅している土地なのだ。立志や野望から、漠然たる都会への憧憬からと、今日でも出で発つ理由はさまざまだろうが、昔は圧倒的に貧困が理由だった。あるいは「醜の御楯(しこノみたて)」として戦地に出で発ち、ついに帰らない者も多かった。そんな思いで芹の水を眺めていると、我とわが身を含めて、若年にして田舎を去っていった者の心の内がしのばれる。作者は七十代。掲句は、そうした少年たちへの清冽な挽歌である。私などには、泣けとごとくに響いてくる。なお若い読者のために補足しておけば、「醜の御楯」とは「卑しい身で天皇のために楯となって外敵を防ぐ者」の意だ。『黄昏期』(2002)所収。(清水哲男)


February 0522002

 春泥に歩みあぐねし面あげぬ

                           星野立子

語は「春泥(しゅんでい)」。春のぬかるみ。春先は雨量が増え気温も低いので、土の乾きが遅い。加えて雪解けもあるから、昔の早春の道はぬかるみだらけだった。掲句には、草履に足袋の和服姿の女性を想像する。ぬかるみを避けながら、なんとかここまで歩いてはきたものの、ついに一歩も進めなくなってしまった。右も左も、前方もぬかるみだ。さあ、困った、どうしたものか。と、困惑して、いままで地面に集中していた目をあげ、行く先の様子を見渡している。見渡してどうなるものでもないけれど、誰にも覚えがあると思うが、半ば本能的に「面(おも)あげぬ」ということになるのである。当人にとっての立ち往生は切実な問題だが、すぐ近くの安全地帯にいる人には(この句の読者を含めて)どこか滑稽に見える光景でもある。作者はそのことをきちんと承知して、作句している。そこが、面白いところだ。我が家への近道に、通称「じゃり道」という短い未舗装の道がある。雨が降ると、必ずぬかるむ。回り道をすればよいものを、つい横着をして通ろうとする。すると、年に何度かは、掲句のごとき状態に陥ってしまう。上野泰に「春泥を来て大いなる靴となり」がある。『實生』(1957)所収。(清水哲男)




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