寝違えた。首がまわらなくなった。今日の句じゃないけれど、他人からすれば滑稽なんだろうな。




2002ソスN2ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0522002

 春泥に歩みあぐねし面あげぬ

                           星野立子

語は「春泥(しゅんでい)」。春のぬかるみ。春先は雨量が増え気温も低いので、土の乾きが遅い。加えて雪解けもあるから、昔の早春の道はぬかるみだらけだった。掲句には、草履に足袋の和服姿の女性を想像する。ぬかるみを避けながら、なんとかここまで歩いてはきたものの、ついに一歩も進めなくなってしまった。右も左も、前方もぬかるみだ。さあ、困った、どうしたものか。と、困惑して、いままで地面に集中していた目をあげ、行く先の様子を見渡している。見渡してどうなるものでもないけれど、誰にも覚えがあると思うが、半ば本能的に「面(おも)あげぬ」ということになるのである。当人にとっての立ち往生は切実な問題だが、すぐ近くの安全地帯にいる人には(この句の読者を含めて)どこか滑稽に見える光景でもある。作者はそのことをきちんと承知して、作句している。そこが、面白いところだ。我が家への近道に、通称「じゃり道」という短い未舗装の道がある。雨が降ると、必ずぬかるむ。回り道をすればよいものを、つい横着をして通ろうとする。すると、年に何度かは、掲句のごとき状態に陥ってしまう。上野泰に「春泥を来て大いなる靴となり」がある。『實生』(1957)所収。(清水哲男)


February 0422002

 立春の鶏絵馬堂に歩み入る

                           佐野美智

春。まだまだ寒い日々はつづくけれど、春の兆しはあちこちに……。掲句も、その一つのように読める。「絵馬堂」には、大きくて立派な絵馬が、額に入れて掲げられている。そんないかめしい感じの絵馬堂に、放し飼いにされた「鶏(とり)」がひょこひょこと入っていった。まさか何かを祈願するためであろうはずもなく、作者は何の屈託もない鶏の様子に、今日の「春」の訪れを見て取ったのだろう。さらには薄暗い絵馬堂に配して、小さな白い鶏。このときに絵馬堂は大きな冬で、鶏は小さな春を感じさせる。ところで、立春とは不思議な言い方だ。風が立つなどなら体感的に納得できるが、春が立つとはこれ如何に。なぜ「始春」や「入春」ではないのだろうか。調べてみたら、曲亭馬琴編の『俳諧歳時記栞草』に由来が古書より引用されていた。「大寒後十五日斗柄建艮為立春」と。「斗柄(とへい)」は、北斗七星の杓子形の柄にあたる部分を言い、古代中国ではこの斗柄の指す方向によって季節や時刻を判別したという。「艮(ごん・こん)」は北東の方位。つまり、斗柄が北東の方角に建ったときをもって春としていたわけだ。したがって、立春。なお「建春」ではなく「立春」の字を用いるのにも理由はあるが、ややこしくなるので省略します。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0322002

 冬菜畑同じ本読む姉妹

                           田中裕明

語は「冬菜畑(ふゆなばた)」。白菜、小松菜、水菜など、辺りの草木が枯れているなかで、これらの野菜の緑は、目に沁みるように美しい。そんな畑が見える室内で、肩を寄せ合って「姉妹(あねいもと)」が仲良く「同じ本」を読んでいる。さして年齢差のない、まだ幼い姉と妹だ。読んでいるのは、絵本だろうか。二人のすこやかな成長ぶりが、窓外の冬菜の健気な姿と通いあっているようで、作者の胸には暖かいものが流れている。ささやかな幸福感をさらりと掬い上げていて、巧みだ。この句を読んで、思い出したよしなしごとがある。敗戦直後の田舎での小学生のころ、容易には本が手に入らなかった時代。誰かがたまに新しい本や雑誌を持ってくると、昼休みにみんなで一緒に読んだ。たいていは東京弁の使える(?!)私が朗読係で、みんなに読み聞かせるということになったが、これがまあ大変な騒ぎ。雑誌の場合には挿絵があるから、音読を聞くだけでは満足できない。読む私の周囲にみんなが額を寄せて密集し、なかには私の背中によじ登るようにして覗き込む奴までがいた。私は、しばしば「ひしゃげ」そうになった。あれが、本当の黒山の人だかり。そうやって、私たちは山川惣治の『少年王者』を読み、江戸川乱歩の『少年探偵団』を読んだのだった。たまのクラス会に出ると、必ずこの話を誰かがする。「ありゃあエラかったが、おもしろかったのオ」。俳誌「ゆう」(2002年2月号)所載。(清水哲男)




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