昔の武蔵野地方の節分は鰯の頭をつけた柊を戸口に挿した。「天道虫の口を焼け」と呪文を唱えて。




2002ソスN2ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0322002

 冬菜畑同じ本読む姉妹

                           田中裕明

語は「冬菜畑(ふゆなばた)」。白菜、小松菜、水菜など、辺りの草木が枯れているなかで、これらの野菜の緑は、目に沁みるように美しい。そんな畑が見える室内で、肩を寄せ合って「姉妹(あねいもと)」が仲良く「同じ本」を読んでいる。さして年齢差のない、まだ幼い姉と妹だ。読んでいるのは、絵本だろうか。二人のすこやかな成長ぶりが、窓外の冬菜の健気な姿と通いあっているようで、作者の胸には暖かいものが流れている。ささやかな幸福感をさらりと掬い上げていて、巧みだ。この句を読んで、思い出したよしなしごとがある。敗戦直後の田舎での小学生のころ、容易には本が手に入らなかった時代。誰かがたまに新しい本や雑誌を持ってくると、昼休みにみんなで一緒に読んだ。たいていは東京弁の使える(?!)私が朗読係で、みんなに読み聞かせるということになったが、これがまあ大変な騒ぎ。雑誌の場合には挿絵があるから、音読を聞くだけでは満足できない。読む私の周囲にみんなが額を寄せて密集し、なかには私の背中によじ登るようにして覗き込む奴までがいた。私は、しばしば「ひしゃげ」そうになった。あれが、本当の黒山の人だかり。そうやって、私たちは山川惣治の『少年王者』を読み、江戸川乱歩の『少年探偵団』を読んだのだった。たまのクラス会に出ると、必ずこの話を誰かがする。「ありゃあエラかったが、おもしろかったのオ」。俳誌「ゆう」(2002年2月号)所載。(清水哲男)


February 0222002

 一生を泳ぎつづける鮪かな

                           星野恒彦

語は「鮪(まぐろ)」で冬。なぜ冬なのか。冬に食べるのが、いちばん美味だからである。鮪にかぎらず、多く動植物の季節への分類は、食べごろをポイントになされている。その意味で、歳時記は人間の食い気がいかに旺盛かを示す「食欲辞典」の趣もある。ところで、掲句は食欲とは無関係だ。おそらくは、魚市場かどこかで丸のままの大きな鮪を見ての感慨だろう。べつに鮪でなくても、鯛や平目でも構わないようなものだが、しかし、鮪の流線型というのか紡錘形というのか、とにかく猛烈なスピードで泳ぐための体型があって、はじめて句が生きてくる。英語では、鮪を「tuna(ツナ)」と言う。ギリシャ語の「突進」という言葉に由来するそうだ。古代から、鮪の高速遊泳に、人々は目を瞠っていたというわけである。すなわち、鮪は一生をひたすら「突進」しつづける魚ということであり、比べれば鯛や平目のイメージは休み休み泳いでいるような感じがする。一生を突進しつづけるとは、勇壮にして豪放だ。が、他方では、何故に突進しなければならないのか。何故に、そんな運命に生まれついたのか。そうした哀しい感情もわいてくる。そういう句だと思う。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)


February 0122002

 二月はや天に影してねこやなぎ

                           百合山羽公

語は「二月」と「ねこやなぎ(猫柳)」で、いずれも春。いわゆる季重なりの句ではあるけれど、まったく気にならない。はやくも二月か……。そういう意識であらためて風景を見つめてみると、いつしか猫柳のつぼみもふくらんできていて、まぶしく銀色に輝いている。それを「天に影して」とは、美しくも絶妙な措辞だ。このときに猫柳はこの世(地上)のものというよりも、作者には半ば天上のもののようにも見え、はるかなる天空に銀色の光りを反射させているのだった。この句を見つけた山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)には「天外の奇想」とあるが、私には少しも「奇想」とは思えない。むしろ、ごく自然に溢れ出てきた感慨であり、見立てだと写る。自然な心を細工をせずに素直に流露しているので、一見抽象的には見えるが、句景としては極めて具象的ではないのか。私などは故郷の川畔に群生していた猫柳を思い出し、なるほど、春待つ心にいちばん先に応えてくれたのは猫柳の光りだったなとうなずかされた。春とはいえ、二月はまだ農家の仕事も忙しくなく、学校帰りに道草をしては、川のなかの生き物どもの動きを、飽かずのぞきこんだりしていたっけ。(清水哲男)




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