今月は初句会が待っている。毎日他人の句につべこべ言っていると、句の作り方が混乱してくる。




2002ソスN2ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0122002

 二月はや天に影してねこやなぎ

                           百合山羽公

語は「二月」と「ねこやなぎ(猫柳)」で、いずれも春。いわゆる季重なりの句ではあるけれど、まったく気にならない。はやくも二月か……。そういう意識であらためて風景を見つめてみると、いつしか猫柳のつぼみもふくらんできていて、まぶしく銀色に輝いている。それを「天に影して」とは、美しくも絶妙な措辞だ。このときに猫柳はこの世(地上)のものというよりも、作者には半ば天上のもののようにも見え、はるかなる天空に銀色の光りを反射させているのだった。この句を見つけた山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)には「天外の奇想」とあるが、私には少しも「奇想」とは思えない。むしろ、ごく自然に溢れ出てきた感慨であり、見立てだと写る。自然な心を細工をせずに素直に流露しているので、一見抽象的には見えるが、句景としては極めて具象的ではないのか。私などは故郷の川畔に群生していた猫柳を思い出し、なるほど、春待つ心にいちばん先に応えてくれたのは猫柳の光りだったなとうなずかされた。春とはいえ、二月はまだ農家の仕事も忙しくなく、学校帰りに道草をしては、川のなかの生き物どもの動きを、飽かずのぞきこんだりしていたっけ。(清水哲男)


January 3112002

 風鬼元風紀係よ風花す

                           坪内稔典

語は「風花(かざはな)」で冬。晴天にちらつく雪。晴れてはいるが、風の吹く寒い日の自然現象だ。句は「風」を三つも持ちだして、徹底的に遊んでいるわけだが、妙に心に沁みてくる。「風紀係」のせいだろう。敗戦直後の民主主義勃興時の学校では、学級委員のなかでも「風紀係」がもっとも実効性を発揮できた。ハンカチを忘れてないかとか、買い食いをしなかったかだとかをチェックする係。いま思うに、この係だけは、戦前からの価値観をそのまま適用でたので動きやすかった。真面目な子が選ばれ、チェックの厳しかったこと。それに引き換え、名のみトップの「委員長」なんて係は、たとえば男女平等の理念はわかるとしても、実際に教室で何かが起きると、具体的にはなかなか反応できないのであった。ついでに言えば、私は永遠の「書記係」で、ついに今でもそのような者である。さて、いまや「元風紀係」は天に召され「風鬼(ふうき・風の神)」となって、あいかわらず地上のチェックには余念がない。「風花」も、彼ないしは彼女の真面目な働きの一貫だと、作者は言うのだろう。せっかく晴れていて、みんなが機嫌よくふるまおうとしているのに、わざわざ雪をちらつかせる(チェックを入れる)こともあるまいに……。一応こんなふうに読んでみたが、どうだろうか。掲句を一読、私たちの「風紀係」だったあいつを思い出した。どうしているだろう。『月光の音』(2001)所収。(清水哲男)


January 3012002

 米磨げばタンゴのリズム春まぢか

                           三木正美

歳時記では「春近し」に分類。いかにも軽い句だけれど、あまり仏頂面して春を待つ人もいないだろうから、これで良い。四分の二拍子か、八分の四拍子か。気がつくと「タンゴのリズム」で「米を磨(と)」いでいた。たぶん、鼻歌まじりにである。なるほど、タンゴの歯切れの良い調子は、シャッシャッと米を磨ぐ感じに似あいそうだ。想像するに、作者は直接手を水につけて磨いではいないようである。何か泡立て器のような器具を使っていて、それがおのずからシャッシャッとリズムを取らせたのだろう。手で磨ぐ場合には、そう簡単にシャッシャッとはまいらない。そんなことをしたら、米が周囲に飛び散ってしまう。子供時代の「米炊き専門家」としては、そのように読めてしまった。ちなみに作者は二十代だが、私の世代がタンゴを知ったのは、ラジオから流れてきた早川真平と「オルケスタ・ティピカ・東京」の演奏からだ。アルゼンチン・タンゴを、正当に継承した演奏スタイルだったという。でも、歌謡曲全盛期の私の耳には、とても奇異な音楽に思えたことを覚えている。いつだったか辻征夫に「『ラ・クンパルシータ』って、どういう意味なの」と聞かれても、答えられなかったっけ。ま、私のタンゴはそんな程度です。「俳壇」(2001年4月号)所載。(清水哲男)




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