JavaScriptの勉強再開。ここに反映させられるのはいつの日か。来月中が目標だが、さあて……。




2002ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2612002

 木偶の眼のかたりとねむる寒夜かな

                           郡司正勝

者は、歌舞伎研究家として著名。句集が二冊あることを、大岡信の著書で知った。「木偶(でく)」は、あやつり人形。この場合は、文楽の人形のことだ。舞台で生命あるもののごとく動く人形に、寒夜思いを馳せていると、舞台を下りてもなお、吹き込まれた生命のままにある姿が浮かんでくる。と、「かたり」とかすかな音がした……。「かたり」と音をさせ瞼を閉じて、いま人形が眠りに就いたのである。もとより想像の世界ではあるけれども、さながら実景のように心に沁みる。「かたり」と「寒夜」の「カ」音の響きあいも、冬の夜の厳しい寒さに通じて秀逸だ。他方で「ねむる」の平仮名表記は、眠りに落ちる安らかさを表現するためのそれだろう。楽屋かどこか、寒気に満ちた殺風景な部屋に置かれた人形だが、決して荒涼たる思いで眠りに就いたのではない。作者の人形に対する愛情が、この平仮名表記に込められたのだと思う。眠る人形といえば、寝かせると眼を閉じる女の子のための玩具人形がある。あれは、どことなく気味が悪い。本物の人間に近づけようとした工夫であるには違いないが、文楽人形とは異なり、ただ一つの機能に特化した工夫だからだ。生きて見えるのは眼だけで、全身の機能と有機的に連動していないからである。『かぶき夢幻』所収。(清水哲男)


January 2512002

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

                           正木ゆう子

語は「鷹」で冬。鷹の種類は多く夏鳥もいるのだが、なぜ冬季に分類されてきたのだろう。たぶんこの季節に、雪山から餌を求めて人里近くに現れることが多かったからではあるまいか。一読、掲句は高村光太郎の短い詩「ぼろぼろな駝鳥」を思い起こさせる。「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。/動物園の四坪半のぬかるみの中では、/脚が大股過ぎるぢやないか。……(中略)これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。/人間よ、/もう止せ、こんな事は。」。心情は同根だ。「風」などと格好良い名前をつけられてはいても、結局この鷹は、生涯颯爽と風を切って飛ぶこともなく「飼ひ殺」しにされてしまうのだ。「俳句」(2002年2月号)を読んでいたら、作者はこの句を、動物園で見たみじめな状態の豹に触発されて詠んだのだという。「あきらめきった美しい豹」。となれば、なおのこと句は光太郎詩の心情に近似してくる。ただ、詩人は「もう止せ、こんな事は」と声高に拳を振り上げて書いているが、句の作者はおのれの無力に拳はぎゅっと握ったままである。これは高村光太郎と正木ゆう子の資質の違いからというよりも、自由詩と俳句との様式の違いから来ているところが大だと思った。いまの私は「もう止せ」と静かに言外に述べている俳句のほうに、一票を投じたい。俳誌「沖」(1989)所載。(清水哲男)


January 2412002

 竹薮の日を踊らせて空っ風

                           福田千栄子

語は「空っ風(空風)」で冬、「北颪(きたおろし)」などとも。天気のよい日中に、山越しに吹き下りてくる季節風だ。上州(群馬)では昔から「かかあ天下に空っ風」と、その猛烈な勢いを言い習わしてきた。関東地方に多く吹くが「罐蹴りや伊吹颪は鬼へ吹く」(日比野安平)のように、他の地方にも呼び名の違う名物のような空風がある。伊吹は滋賀。掲句は、吹きすさぶ様子を「竹薮」に認めることで、すさまじさを的確に表現している。丈の高い竹群がいっせいに揺れるのだから、大揺れの竹の合間に透けて見える太陽の光りは散乱明滅し、さながら踊っているようだ。それも、狂うがごとくと言うのだろう。「日」が射しているだけに、逆に荒涼感も強い。ただ「竹薮の」という措辞が、少々気になった。「竹薮に」としたほうが、同じ情景でも、句のスケールが大きくなるのではあるまいか。私も一度だけ、前橋(群馬)で本格的なヤツに遭遇したことがある。まず、まともに目を開けていられない。おまけに私はコンタクト・レンズを装着しているので、痛さも痛し、うずくまりたくなるほどだった。「かかあ天下」はともかく、とてもここでは暮らせないなと思ったことである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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