だいぶ日が高くなってきた。帰途のバスから見えていた落日も、いまは正面から目を射ってくる。




2002ソスN1ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2412002

 竹薮の日を踊らせて空っ風

                           福田千栄子

語は「空っ風(空風)」で冬、「北颪(きたおろし)」などとも。天気のよい日中に、山越しに吹き下りてくる季節風だ。上州(群馬)では昔から「かかあ天下に空っ風」と、その猛烈な勢いを言い習わしてきた。関東地方に多く吹くが「罐蹴りや伊吹颪は鬼へ吹く」(日比野安平)のように、他の地方にも呼び名の違う名物のような空風がある。伊吹は滋賀。掲句は、吹きすさぶ様子を「竹薮」に認めることで、すさまじさを的確に表現している。丈の高い竹群がいっせいに揺れるのだから、大揺れの竹の合間に透けて見える太陽の光りは散乱明滅し、さながら踊っているようだ。それも、狂うがごとくと言うのだろう。「日」が射しているだけに、逆に荒涼感も強い。ただ「竹薮の」という措辞が、少々気になった。「竹薮に」としたほうが、同じ情景でも、句のスケールが大きくなるのではあるまいか。私も一度だけ、前橋(群馬)で本格的なヤツに遭遇したことがある。まず、まともに目を開けていられない。おまけに私はコンタクト・レンズを装着しているので、痛さも痛し、うずくまりたくなるほどだった。「かかあ天下」はともかく、とてもここでは暮らせないなと思ったことである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 2312002

 王冠のごとくに首都の冬灯

                           阿波野青畝

後も間もなくの句。季語は「冬灯(ふゆともし)」だが、単に冬の燈火を指すのではなく、俳句では厳しい寒さのなかのそれを言ってきた。空気が澄みきっているので、くっきりと目に鮮やかだ。掲句の灯は、復興いちぢるしい東京の繁華街のネオンのことを言っている。高いところで、さながら豪奢な「王冠」のようにキラキラと輝いている。「東京がゴッツイ王冠をかぶっとる。さすがやなア。よう見てみなはれ、ゴウセイなもんやないかい」と、関西人である作者は感嘆している。……と受け取った読者は、まことに善良な性格の持ち主だ(笑)。なんのなんの、生粋の関西人がそう簡単にネオンごときで「首都」を褒め称えるわけがない。たしかに最初は目を見張ったかもしれないが、たちまち「なんや、よう見たら、あれもこれもヤスモンの瓶の蓋みたいなもんやないか、アホくさ。おお、サブゥ」となったこと必定である。つまりこの句には、そんな毀誉褒貶をとりまぜた面白さがある。どちらか一方の解釈だけでは、あまりにも単純でつまらない。形が似ているところから、ブリキ製のビール瓶などの蓋のことを、当時は俗に「王冠」と呼んでいた。この言葉が聞かれなくなって久しいが、そもそもの本家(!)の王冠の権威が、すっかり薄れてしまったことによるのだろう。『紅葉の賀』(1955)所収。(清水哲男)


January 2212002

 ストーブにビール天国疑はず

                           石塚友二

しさを開けっぴろげにした句。「ビール天国」ではなくて、「ビール」と「天国」は切れている。句意は、入浴の際に「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と言うが如し。天国ってのは、きっとこんな楽しいところなんだろうと、勝手に無邪気に納得している。作者のはしゃぎぶりがよく伝わってきて、ビール党の私には嬉しい句だ。ただし、こういう句は、句会などでの評価は低いでしょうね。「ひねり」がない。屈託がない。ついでに言えば、馬鹿みたい……と。とくに近代以降の日本の文芸社会では、こうした明るい表現には点が辛いのだ。むろん、それなりの必然性はあるわけだが、ために喜怒哀楽の「怒哀」ばかりが肥大して、人間の捉え方が異常なほどにちぢこまってしまっている。表現技術のレベルも「怒哀」に特化されて高められてきたと言っても過言ではあるまい。べつに掲句を名句だとは思わないけれど、このあたりから鬱屈した文芸表現の優位性を、少しでも切り崩せないものだろうか。もっともっと野放図に放胆に明るい句はたくさん作られるべきで、その積み重ねから「喜楽」に対する表現技術も磨かれてくるだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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