辻征夫散文集『ゴーシュの肖像』(書肆山田)が出た。惜しい男だったと、つくづく思う。合掌。




2002ソスN1ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2212002

 ストーブにビール天国疑はず

                           石塚友二

しさを開けっぴろげにした句。「ビール天国」ではなくて、「ビール」と「天国」は切れている。句意は、入浴の際に「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と言うが如し。天国ってのは、きっとこんな楽しいところなんだろうと、勝手に無邪気に納得している。作者のはしゃぎぶりがよく伝わってきて、ビール党の私には嬉しい句だ。ただし、こういう句は、句会などでの評価は低いでしょうね。「ひねり」がない。屈託がない。ついでに言えば、馬鹿みたい……と。とくに近代以降の日本の文芸社会では、こうした明るい表現には点が辛いのだ。むろん、それなりの必然性はあるわけだが、ために喜怒哀楽の「怒哀」ばかりが肥大して、人間の捉え方が異常なほどにちぢこまってしまっている。表現技術のレベルも「怒哀」に特化されて高められてきたと言っても過言ではあるまい。べつに掲句を名句だとは思わないけれど、このあたりから鬱屈した文芸表現の優位性を、少しでも切り崩せないものだろうか。もっともっと野放図に放胆に明るい句はたくさん作られるべきで、その積み重ねから「喜楽」に対する表現技術も磨かれてくるだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2112002

 金借りて冬本郷の坂くだる

                           佐藤鬼房

和初期、作者十九歳の句。「本郷」は東京都文京区の南東部で坂の多い町だ。句の命は、この本郷という地名にある。いまでこそ一般的なイメージは薄れてきたようだが、その昔の本郷といえば、東京帝国大学の代名詞であった。そんな最高学府のある同じ町で、作者は貧しい臨時工として働いていた。生活のために金を借りて本郷の坂道を「くだる」ときの思いには、当然のように天下の帝大への意識が働いていただろう。六歳で父親を失い、本を読むことの好きだった若者としては、家庭環境による条件の差異が、これほどまでに進路を制約するものであることを、このときに痛切に実感したのである。そんなことはどこにも書いてないけれど、「本郷の坂」と地名を具体的に書いた意味は、そこにある。のちに鬼房は「わが博徒雪山を恋ひ果てしかな」と詠んだ。「わが博徒」とは、若き日の野心を象徴している。野心のままに故郷を離れ、「雪山を恋ひ」つつもあくせくと都会で生きているうちに、いつの間にか我が野心も「果て」てしまったという自嘲句である。作者は戦後の「社会性俳句」を代表する存在と言われるが、この種の句を拾っていくと、むしろ石川啄木などに通じる抒情の人であったと言ったほうがよいように思う。一昨日(2002年1月19日)、八十二歳で亡くなられた。合掌。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)




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