愛用してきたバインダー式手帖のリフィルが、どこにも売ってない。止むを得ず別の手帖にした。




2002ソスN1ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1712002

 大仏の冬日は山に移りけり

                           星野立子

子は鎌倉の人だったから、長谷の「大仏」だろう。何も技巧を弄することなく、見たままに詠んでいる。いままで大仏にあたっていた「冬日(ふゆび)」が移って、いまはうしろの山を照らしている。それだけのことを言っているにすぎないが、大きな景色をゆったりと押さえた作者の心持ちが、とても美しい。それまでにこの情景を数えきれない人たちが目撃しているにもかかわらず、立子を待って、はじめて句に定着したのだ。それもまだ初心者のころの作句だと知ると、さすがに虚子の娘だと感心もし、生まれながらに俳人の素質があった人だと納得もさせられる。いや、それ以前に立子の感受性を育てた周囲の環境が、自然に掲句を生み出したと言うべきか。短気でせっかちな私などには、逆立ちしても及ばない心境からすっと出てきた句である。なお参考までに、山本健吉の文章を紹介しておく。「俳句の特殊な文法として、初五の『の』に小休止を置いて下へつづく叙法があるが、この場合は休止を置かないで『大仏の冬日は山に』と、なだらかに叙したものである。それだけに俳句的な『ひねり』はなく、単純な表現だが、淡々としたなかに、大づかみにうまく大景を捕えている」。……この「単純な表現」が難しいのですよね。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


January 1612002

 寒雷や針を咥へてふり返り

                           野見山朱鳥

語は「寒雷(かんらい)」で冬。冬の雷のことだが、冬に雷は少ない。少ないからこそ、鳴ったり光ったりすれば、一瞬何事かと音や光りの方角を自然の勢いで見やることになる。その一瞬をつかまえた句だ。しかも「ふり返」った人は、偶然にも「針を咥へて」いた。雷と針。物理的に感電しそうだとか何とか言うのではなく、いかにも犀利でとがった印象を受ける現象と物質とが瞬間的に交叉し光りあったような情景のつかみ方が面白い。現代語で言えば、「しっかりと」構図が「決まっている」。さて、この「針」であるが、私には待針(まちばり)だと思えた。したがって、ふり返ったのは女性である。妻か母親だろう。待針は裁縫で縫いどめのしるしとし、あるいは縫い代を狂わないように合わせて止めるために刺す針のことだ。一度に何本も刺さなければならないので、大工が釘を咥(くわ)えて打つのと同じ理屈で、何本かを口に「咥へて」いるほうが能率的である。たいていは、頭にガラス玉か花形のセルロイドなどが付いていたので、咥えやすいという事情もあった。それにしても掲句は、よほど研ぎ澄まされた神経でないと見過ごしかねない情景を詠んでいる。作者の人生の三分の一が不幸にも病床にあったことは、既に何度か書いた。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


January 1512002

 上流や凍るは岩を押すかたち

                           ふけとしこ

語は「凍(こお)る」で冬。寒気のために物が凍ることだけではなく、凍るように感じることも含む。川の上流は自然のままなので、岩肌がゴツゴツと露出している。厳寒期になって飛沫がかかれば、当然まずは岩肌の表面から凍っていくだろう。そして、だんだんと周辺が凍ることになる。その様子を指して、凍っていく水が「岩を押すかたち」に見えるというのだ。「凍る」という現象を視覚的な「かたち」に変換したことで、自然の力強さが読者の眼前に浮かび上がってくる。なるほど、たしかに岩が押されているのだ。掲句を読んだ途端に、大串章に「草の葉に水とびついて氷りけり」があったことを思い出した。言うならば岩を飛び越えた飛沫が「草の葉」にかかった情景を、繊細な観察力で描き出した佳句である。岩を押す力強さはなくても、これもまた自然の力のなせるわざであることに変わりはない。再び、なるほど。たしかに草の葉はとびつかれているのだ。岩は押され、草の葉はとびつかれと、古来詠み尽くされた感のある自然詠にも、まだまだ発見開拓の期待が持てる良句だと思った。「ホタル通信」(22号・2002年1月8日付)所載。(清水哲男)




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