二月に寒いところへ行って一杯やろうとの誘い。よし、行こう。雪見酒なんて、はじめてだしね。




2002ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1112002

 雪つぶてまた投げ合うて別れかな

                           阿部慧月

語は「雪つぶて(雪礫)」で冬。雪合戦のときなどの雪玉だ。少年時代の回想だろう。句を読んで、ありありと一つの情景がよみがえってきた。田舎の雪道を、何人かで連れ立って帰る。ほとんどが一里の道を歩くのだが、同方向の者ばかりではないから、分かれ道に出るたびに、少しずつ人数が減っていく。そして、最後は一人になる。冬の山道は、日暮れが早い。暗くなりかけた遠くの山裾では、早くも明かりを灯している家がぽつりぽつりと……。心細くなって早足になりかけて、たいていはその途端だ。いきなり、背中に「雪つぶて」が飛んでくるのは。「来たっ」と思う。投げてきたのは、いましがた別れた奴である。こちらもパッとかがみ込み、振り向きざまに「なにくそ」と投げ返す。物も言わずに数個の応酬があってから、どちらからともなく「じゃあ、またあしたなあっ」と笑いながら大声をかけあって、我々の「儀式」は終わるのだった。そのときにはむろん、センチメンタルな感慨など覚えるはずもなかったけれど、回想のなかでは甘酸っぱい哀しみのような思いがわき上がってくる。その思いが「別れかな」の「かな」に込められている。奴と別れてから、もう何十年にもなる。いつも年賀状に「一度帰ってこいよ」と書いてよこす。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1012002

 冬青空いつせいに置く銀の匙

                           水野真由美

語は「冬の空」。曇りや雪の日の空は暗鬱で寒々しいが、晴れた日には青く澄みきって美しい。その美しさを、どう表現するか。たとえば「冬青空鈴懸の実の鳴りさうな」(中村わさび)という具合に地上の自然と呼応させるのが、俳句的常道だろう。悪くはないが、あくまでも静観の美しさだ。が、作者の場合は静観では飽き足らぬ思いがあり、アクションで呼応している。あまりの美しさに、食事中の「匙」を思わずも置くほどだと言うのである。それも作者ひとりだけではなく、地上のあちこちでたくさんの人々が「いつせいに」置いたと瞬間的に想像を伸ばしている。このときに「銀の匙」の「銀」とは、本物の「銀製」である必要はない。見事な青空に対すれば、どんな匙でも少し鈍色がかった銀色に見えるはずだ。決してキラキラとは輝いていない匙が「いつせいに」、それも無数に食卓に置かれたことで、いっそう冬空の青さが鮮烈に目に沁みてくる。さらに私の独断的想像を書いておけば、句が終わった途端に、アクションを起こした人々の姿も食卓も住居までもが「いつせいに」掻き消されてしまい、青空の下に残ったのは数多の「銀の匙」だけのような気がしてくる。そんな絵のような光景が浮かんできた。『陸封譚』(2000)所収。(清水哲男)


January 0912002

 松過ぎの弁当つめてもらひけり

                           清水基吉

語は「松過ぎ」で新年。松の内が過ぎたころで、まだ新年の余韻が少し残っている。作者は大正七年生まれ。作者自身が弁当をつめてもらったとも解せるが、小学生か中学生の孫か曾孫がつめてもらったと読んでおきたい。そのほうが、句に暖かみが出ると思う。三学期の始業式も終わって、今日からいつものように弁当持参の学校生活がはじまる。子供にも、子供の日常が戻ってきたのだ。正月もこれでお終いだな。頭の片隅でちらりとそんなことを思いながら、「元気でがんばれよ」と声をかけてやりたくなる気分。弁当を受け取る孫はおそらく無表情だけれど、作者の表情にはおのずといつくしみの念が浮かんでいるだろう。ほほ笑ましい光景だ。ところで私見によれば、孫と猫を素材にした詩歌にはほとんどロクなものはない。どうしても目じりが下がり過ぎて、溺愛気味の筆の運びとなってしまうからだ。あの金子光晴にしてからが、そうだった(「若葉ちゃん」連作詩)。家族や親戚に読ませるのならばともかく、一般読者に差し出されても困ってしまう。この句は、そのあたりの機微をきちんとわきまえた上での作句だと思った。だから「つめてもらひけり」の主体が、意図的に隠されているのではあるまいか。読者に察してもらうことで、大甘な句になることから免れているのでは……。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)




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