国見は強い。♪大地に顔をくっつけて大地の匂いを嗅いでみろ。長居時代の高校サッカー懐かし。




2002ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012002

 冬青空いつせいに置く銀の匙

                           水野真由美

語は「冬の空」。曇りや雪の日の空は暗鬱で寒々しいが、晴れた日には青く澄みきって美しい。その美しさを、どう表現するか。たとえば「冬青空鈴懸の実の鳴りさうな」(中村わさび)という具合に地上の自然と呼応させるのが、俳句的常道だろう。悪くはないが、あくまでも静観の美しさだ。が、作者の場合は静観では飽き足らぬ思いがあり、アクションで呼応している。あまりの美しさに、食事中の「匙」を思わずも置くほどだと言うのである。それも作者ひとりだけではなく、地上のあちこちでたくさんの人々が「いつせいに」置いたと瞬間的に想像を伸ばしている。このときに「銀の匙」の「銀」とは、本物の「銀製」である必要はない。見事な青空に対すれば、どんな匙でも少し鈍色がかった銀色に見えるはずだ。決してキラキラとは輝いていない匙が「いつせいに」、それも無数に食卓に置かれたことで、いっそう冬空の青さが鮮烈に目に沁みてくる。さらに私の独断的想像を書いておけば、句が終わった途端に、アクションを起こした人々の姿も食卓も住居までもが「いつせいに」掻き消されてしまい、青空の下に残ったのは数多の「銀の匙」だけのような気がしてくる。そんな絵のような光景が浮かんできた。『陸封譚』(2000)所収。(清水哲男)


January 0912002

 松過ぎの弁当つめてもらひけり

                           清水基吉

語は「松過ぎ」で新年。松の内が過ぎたころで、まだ新年の余韻が少し残っている。作者は大正七年生まれ。作者自身が弁当をつめてもらったとも解せるが、小学生か中学生の孫か曾孫がつめてもらったと読んでおきたい。そのほうが、句に暖かみが出ると思う。三学期の始業式も終わって、今日からいつものように弁当持参の学校生活がはじまる。子供にも、子供の日常が戻ってきたのだ。正月もこれでお終いだな。頭の片隅でちらりとそんなことを思いながら、「元気でがんばれよ」と声をかけてやりたくなる気分。弁当を受け取る孫はおそらく無表情だけれど、作者の表情にはおのずといつくしみの念が浮かんでいるだろう。ほほ笑ましい光景だ。ところで私見によれば、孫と猫を素材にした詩歌にはほとんどロクなものはない。どうしても目じりが下がり過ぎて、溺愛気味の筆の運びとなってしまうからだ。あの金子光晴にしてからが、そうだった(「若葉ちゃん」連作詩)。家族や親戚に読ませるのならばともかく、一般読者に差し出されても困ってしまう。この句は、そのあたりの機微をきちんとわきまえた上での作句だと思った。だから「つめてもらひけり」の主体が、意図的に隠されているのではあるまいか。読者に察してもらうことで、大甘な句になることから免れているのでは……。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)


January 0812002

 冬の雨花屋の全身呼吸かな

                           津田このみ

じ程度の降りなら、雪よりも「冬の雨」のほうが、実際の気温とは裏腹に寒く冷たく感じられる。暗くて陰鬱だ。『四季の雨』(作詞者作曲者ともに不詳)という文部省唱歌があって、歌い出しは「聞くだに寒き冬の雨……」と、まず寒いイメージが強調されている。そんな雨のなかを身をちぢめて歩いているうちに、「花屋」の前に出た。ぱっと明るい春の花屋に比べれば、冬の花屋の色彩はさすがにバリエーションに乏しい。乏しいけれど、店の花々はこの冷たい雨を受け入れ、「全身」ですこやかに「呼吸」しているように見えた。ひっそりと、しかし確実に充実した時間のなかにある花々に、作者は静かな感動を覚えたのである。花屋を色彩的にスケッチした句はよくあるが、掲句は花々の生理に就いて詠んでおり出色だ。他の季節とは違う「冬の雨」ならではの句景である。ちなみに『四季の雨』のそれぞれの季節は、次のように歌い出されている。「降るとも見えじ春の雨……」「俄(にわ)かに過ぐる夏の雨……」「おりおりそそぐ秋の雨……」。メロディーが、また素晴らしく美しい。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)




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