ニュースが薄い。めぼしいニュースがないことを言う業界用語だ。薄くて結構。一年中薄くあれ。




2002ソスN1ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0312002

 双六のごとく大津に戻りをり

                           鈴木鷹夫

語は「双六(すごろく)」で新年。歌ガルタよりもすたれた正月の遊びが、双六だろう。今の子には、もっと面白い遊びがある。私の子供の頃には、少年雑誌の附録に必ず双六があった。組み立てて使うサイコロの付いていたところが、いかにも敗戦直後的。掲句だが、昔の双六の上がりは「京」と決まっていたけれど、近くの「大津(滋賀県)」あたりまで行くと、なかなか上がれない仕組みになっていた。今度こそとサイコロを振っても、また「元に戻る」と出て「大津」に戻される。作者は実際に正月に旅をしているわけだが、何か大津に忘れた用事でも思い出したのか。京都に入る直前から、また大津に取って返した。これではまるで双六みたいだと、苦笑している。ところで『新日本大歳時記・新年』に、草間時彦がこんな文章を寄せていた。初句会では、よく双六などのすたれた遊びも席題となる。「双六という題を貰った俳人は、どうやって句を作ればよいというのだろう。正月の季語の源泉となるしきたりや行事が亡びつつある現代で、正月の季題を詠むにはノスタルジアに頼るよりほかにない。子供の頃をなつかしく思う心である。双六のさいころが青畳の上にころげていたときの思いを現代に生かすのが正月の俳句の作句法だと私は思っている」。同感するしかないが、となれば、掲句はそのノスタルジアを現代に生かした好例と言うべきか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0212002

 封切れば溢れんとするかるたかな

                           松藤夏山

語は「かるた(歌留多)」で新年。カルタ(語源はポーランド語、イスパニア語という)にもいろいろ種類があるが、この場合は小倉百人一首による歌ガルタだろう。正月のカルタ会。若い男女の交際の場にもなったので、戦前まではとくに盛んだったらしい。歌ガルタは子供用のいろはカルタなどとは違い厚みがあるので、新しいカルタの紙封を切ると、実際「溢れ」るように箱から盛り上がる。その瞬間をとらえた掲句は、作者の弾む心と照応している。楽しい気分の盛り上がりをカルタのそれに託したところが、いかにも言い得て妙だ。私の若い頃には、もう歌カルタは一般的にはすたれかけており、それでも数度カルタ会に参加した記憶はある。最初は急な呼びかけだったので、百人一首を諳んじていない当方としては、大いにあわてた。窮余の一策で数種だけ覚えて出かけ、それだけをひたすら待ちかまえて取ったのだった。なかで、今でも覚えているのは「天つ風雲の通ひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ」くらいかな。子供時代はいろはガルタ専門で、幼年期に最初に買ってもらったカルタには、昨年亡くなった横山隆一の漫画キャラクター「フクちゃん」の絵が描かれていた。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


January 0112002

 花火もて割印とせむ去年今年

                           和湖長六

語は「去年今年(こぞことし)」で新年。午前零時を過ぎれば大晦日も去年であり、いまは今年だ。掲句は、おそらくカウントダウン・ショーで打ち上げられる「花火」を見ての即吟だろう。華やかに開きすぐに消えていく「花火」を「割印(わりいん)」に見立てたところが機知に富んでいるし、味わい深い。「割印」といえば、互いに連続していることを証するために、印鑑を二枚の書面にまたがるようにして捺すことである。何ページかにまたがる重要書類などに捺す。それを掲句では、去年と今年の時の繋ぎ目に「花火」でもって捺印しようというのだから、まことに気宇壮大である。と同時に、捺しても捺しても、捺すはしから消えていくはかなさが、時の移ろいのそれに、よく照応している。高浜虚子の有名な句に「去年今年貫く棒の如きもの」がある。このときに虚子は「棒の如きもの」と漠然とはしていても、時を「貫く」力強い自負の心を抱いていた。ひるがえって掲句の作者には、そうした確固たる自恃の心は持ちようもないというわけだ。精いっぱい気宇を壮大にしてはみるものの、気持ちにはどこかはかなさがつきまとう。多くの現代人に共通する感覚ではあるまいか。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)




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