asahi.comの「今年の十大ニュース」に投票した。10項目では選びきれないほどに、大きな出来事が。




2001ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18122001

 炭俵的にぞ立つてゐようと思ふ

                           小川双々子

語は「炭俵(すみだわら)」で冬。当歳時記では「炭」の項に分類。最近はさっぱり見かけないけれど、あるところにはあるのだろうか。米俵とは違って、カヤなどで編んだ目の粗い俵である。もちろん、名のごとく炭を保管しておくための入れ物だ。炭がいっぱいにつまっている俵は、がっしりと直立している。が、中の炭が減ってくると、当たり前のことながら、だんだんへなへなと崩れそうに傾いてくる。だからときどき、重心を戻してやるために、持ち上げてゆさぶってやる必要がある。作者は、そんな不安定な「炭俵的にぞ」立っていたいと述べている。すなわち「俺が、私が」と自我を丸出しに直立して生きるのではなく、中身が少なくなれば重心がそれなりに変化していき、いまにも倒れそうになり、誰もゆさぶってくれなければ倒れかねない生き方をしたいと言うのである。阿弥陀仏の「他力本願」に似た心境だろうが、作者が敬虔なキリスト者であることを思えば、さまざまな宗教の求めるところは、ついにこのあたりに集約されるのかと考えさせられた。そんな大真面目な物言いはべつにして、傾いた「炭俵」の姿には、なかなか愛嬌がある。この句にもまた、大真面目の重心がどこか妙にずれているような不思議な愛嬌が感じられる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


December 17122001

 足袋の持つ演劇的な要素かな

                           京極杞陽

語は「足袋(たび)」で冬。女性用は白足袋、男性用は紺色ないしは黒色で、礼装用は男女ともに白足袋である。作者がどんな場面でこう感じたのかは知らねども、言われてみれば、なるほどと得心がいった。たしかに足袋は靴下などよりも、よほど芝居がかって見える。1968年の作だから、もはや足袋をはく人も少なくなっていたころなので、なおさらだ。もっとも作者は、世が世であれば豊岡藩(兵庫県)のお殿様となったはずの人ゆえ、足袋には一般人よりも縁は深かったにはちがいないが……。したがって「演劇的な要素」があることにも、よほど敏感だったのだろう。戦後の吉田茂首相の白足袋姿は有名だったが、彼もまたそこらへんの事情を承知しての演技だったのだろうか。それにしても、「演劇的な要素」なる観念語を無造作に句に放り込んだ(と見えるように、故意に仕掛けた)手法は面白い。作者が虚子の弟子であることを知れば、ますます面白い。句の発想を得た具体的なシーンを写生して上手に詠めば、句意としてはほぼ同意の作品ができるはずだ。が、作者はあえてそうしなかった。たぶん「ハイクハイクした句」に、飽き飽きしていたのだと思う。すなわち裏をかえせば、この句こそが、実は足袋なんかよりもよほど「演劇的な要素」に満ちているの「かな」(笑)。でも、たまには精神衛生上、こういう句もよい。気に入っちゃった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)


December 16122001

 刻かけて海を来る闇クリスマス

                           藤田湘子

リスマスは、言うまでもなくキリストの降誕を祝う日である。その祝いの日をやがては真っ暗に覆い隠すかのように、太古より「刻(とき)かけて」、はるかなる「海」の彼方より近づいてくる「闇」。人間にはとうてい抗いがたい質量ともに圧倒的な暗黒が、ゆっくりと、しかし確実に接近してきつつあるのだ。この一年を振り返るとき、一見観念的と思える掲句が、むしろ実感としてこそ迫ってくるではないか。知られているように、キリストは夜に生まれた。いま私たちに近づいてくる「闇」は、彼の生まれた日の夜のそれと同様に邪悪の気配にみなぎっており、しかも生誕日の暗黒とは比較にならぬほどの、何か名状しがたいと言うしかないリアリティを確保しているようだ。キリスト教徒ではないので、私にはこの程度のことしか言えないけれど、いまこそ宗教は意味を持つのであろうし、また同時に、人間にとっての真価は大きく問い返されなければならぬとも思う。「聖夜」の「聖」、「聖戦」の「聖」。俗物として問うならば、どこがどう違うのか。しかし、そんなことは知ったことかと、海の彼方から今このときにも、じりじりと掲句の「闇」は接近中だ。何故か。むろん、他ならぬ私たち人間が、太古よりいまなお呼び寄せつづけているからである。メリー・クリスマス。「俳句研究」(2002年1月号)所載。(清水哲男)




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