午前中に明日のここを書きDSLの機嫌をとり、午後は映画の後で人に会い、夜は蹴飛ばし屋で忘年会。




2001ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15122001

 寒柝やしばし扉の開く終電車

                           守屋明俊

語は「寒柝(かんたく)」で冬。火事の多い冬季に、火の用心のために「柝(たく・拍子木)」を打ちながら夜回りをする。「火の用心、さっしゃりましょーっ」と回る、あれだ。その拍子木の音のことを「寒柝」と言う。さて、深夜の郊外の駅である。「終電車」の扉が開いて、どこか遠くのほうから柝を打つ音が聞こえてきた。ああそんな時間かと、あらためて思う。大半の人たちが、もう床に就いている時間だ。仕事で遅くなったのか、あるいは飲んでの帰りか。いずれにしても、一刻も早く帰宅したいのが終電車の乗客の心理だ。日中の「しばし」の停車ならさして気にもとめないところだが、深夜の「しばし」は本当にひどく長く感じられる。が、扉は無情にも「しばし」開いたままなのだ。すっかり客もまばらになった車内には、冷たい夜気が容赦なく流れ込んでくる。そこへまた、遠くからかすかに柝を打つ音が……。終電車の客の侘しい心持ちが、聞こえてきた「寒柝」でいっそう際立った。明日が休日というのならばまだしも、この侘しさは、明日も朝から出勤という身の侘しさにちがいない。この独特の侘しさに、思い当たる読者も少なくないだろう。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


December 14122001

 冬帽や画廊のほかは銀座見ず

                           皆吉爽雨

前の句だろうか。時間がなくて、調べられなかった。当時の都会のいっぱしの男は、好んで中折れ帽をかぶったようだ。昔の新聞の繁華街の様子を写真で見ると、そう思える。だとすれば、作者の「冬帽」も中折れ帽だろう。脱ぐときは、ちょいと片手でつまむようにして脱ぐ。そこに、その人なりのしゃれっ気も表われる。句意は明瞭。寒い中、それでも作者が銀座に出かけていくのは画廊が唯一の目的であり、その他の繁華には無関心だと言うのである。「冬帽」と「画廊」との結びつきの必然性は、女性とは違って、男が画廊に入るときには必ず帽子を脱ぐことによる。それから、室内の帽子掛けにかける。銀座は、昔から画廊の多い街だ。一箇所を見終わると、すぐ隣りのビルに入ったりする。次々と訪れるたびに帽子を脱ぐので、どうしても「冬帽」が、つまむ手に意識されるというわけだ。繁華には目もくれず絵画に没頭する作者の気概と自負が、帽子を扱う微妙な所作に収斂されているように読めて面白い。いつもの余談になるけれど、私が俳人のなかで、どなたかを「先生」と呼ぶことがあるとすれば、作者はその筆頭に来る。一度もお会いしたことはなかったが、先生は環境の激変に翻弄されていた私の少年期に、拙い投稿句をいつも「毎日中学生新聞」に載せてくださった。今日までの私の俳句愛好は、爽雨先生に発している。平井照敏編『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 13122001

 美しく耕しありぬ冬菜畑

                           高浜虚子

語は「冬菜(ふゆな)」で、むろん冬季。初秋に種を蒔き、冬に収穫する白菜、小松菜、水菜など菜類の総称だ。仕事やら浮世の義理やらなにやらで、とかく人事雑用に追いまくられる定めの師走である。今日も用事を抱えてせかせか歩いているうちに、住宅街の外れの畑地に出た。「ほお」と、思わずも足が止まった。満目枯れ果てたなかに、そこだけ緑鮮やかな「冬菜」が展開している。この光景だけでも十分に美しいが、それを虚子は一歩進めて「美しく耕しありぬ」と、耕した人への思いを述べた。見知らぬその人の日頃の丹精ぶりに、敬意をこめた挨拶を送っている。人の仕事とはかくあるべきで、比べれば、歳末の雑事多忙などの大半は刹那的な処理の対象でしかない。そんな思いも、作者の脳裏をかすめただろう。我が家の近所にも、昔ながらの畑地がある。四季を問わず、ときどき見に行く。行くといつでも、深呼吸をしたくなる。かつての農家の子供のころには、ごく当たり前でしかなかった平凡な光景が、いまでは何かとても尊い感じに受け取れるようになった。掲句を読んで、それが畑地と関わる人の日常的な営為への心持ちであることが、はっきりとわかった。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)




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