「おせち料理」の広告。毎年楽しんで眺めているが一度も注文したことはない。死ぬまでに一度は。




2001ソスN11ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 27112001

 なが性の炭うつくしくならべつぐ

                           長谷川素逝

事をするにつけても、人の「性(さが)」は表われる。手際の良し悪し、上手か下手かも表われる。「炭」をつぐ行為などは、その最たるものの一つだった。でも、機器にスイッチを入れるだけの現代の暮らしの中にだって、その気になって観察すれば「性」の表われは認められる。ただ昔の生活では「炭」つぎのように、本来の目的に至るまでのプロセスが露(あらわ)にならざるを得なかったときには、そこに美学の発生しやすい環境があった。「なが」は「汝が」であり、女性を指している。妻だろう。連れ添ってこのかた、いつも冬になると、炭を「うつくしくならべつぐ」妻に感心している。しかし、どうかすると、あまりにも「うつくしくならべ」すぎるのではないのかと、彼女の神経質なところが気にもなっている。むしろ無造作を好む私には、そんな作者の微妙な心の揺れ、複雑なニュアンスが感じられる。讃めているだけではないような気がする。だからことさらに「性」と言い、きちょうめんな妻の性質や気質を強調しているのではあるまいか。私は、乱雑に炭がつがれていく状態のほうが好きだ。見た目にも暖かさが感じられるし、実際にもそのほうが炭と炭との間に空気が入り込むからよく熾(おこ)るので、暖かい理屈だ。もっとも、家計を考えれば熾りすぎるので不経済きわまりない。寒くなりはじめると、途端に炭の値段が上がった。そこで、良妻としては「うつくしくならべつぐ」ことにより、節約をしているのかもしれない。ま、これはあながち冗談とも言えない話なのだが、掲句の女性の場合には、そこまで考えての行為ではないと素直に受け取っておこう。そうでないと、せっかくの句が壊れてしまう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 26112001

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

い句ですね。無季ではあるけれど、この時代のいまの冬の季節にこそ、輝きを放つ句だと読める。テロ事件、報復戦争、それに加えて以前からの慢性的な不況、それに伴う失業者の増加。さらには陰惨な犯罪の多発など、どれをとっても、いまが人類の盛りなどとは、とうてい誰も思うまい。このときに「人類の旬(しゅん)」とはいつごろだったろうかと思い巡らすのは、自然な心の成り行きだろう。作者はそれを「土偶」の姿から縄文期に見たのであり、言われてみればそうかもしれないと納得できる。数多く出土しているこの泥人形たちの多くは、女性像である。それこそ「おっぱい」があるのでわかるわけだが、ではなぜ女性像なのかについては諸説があるようだ。が、なかでほぼ共通して見える解釈に呪術性との関連があり、これには素直にうなずけた。縄文人にだって知識も教養もあったが、男はもちろん当の女性にしてからが、妊娠出産の不思議さには呆然としていたに違いないからだ。妊娠姿の「土偶」もある。畏れの念がわくのも、ごく自然のことだったろう。で、女性像を人形に作るにあたってのいちばんの留意点は、誰が見ても女性とわかるところにあったはずだ。すなわち、女性の女性たる所以を形にすることである。それが「おっぱい」だった。初期の人形には、顔も手足もない。省略されたのではなく、女性を表現するのに、そんなものは必要がなかったからだろう。憶測にはなるが、縄文人には女性らしい顔つきや手足、さらには物腰などという物差しが無かったのだと思う。作者の言うように、女性像を乳房に集約できた時代は、たしかに「人類の旬」と言ってもよいのではあるまいか。「土偶のおっぱい」は、なるほど実に凛乎として見える。「俳句研究」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 25112001

 落葉してつばめグリルのフォークたち

                           大隅優子

式ばったレストランとは違って、庶民的な雰囲気のあるのが「グリル」だろう。銀座に本店のある「つばめグリル」は、創業70年を越えたという。ま、「洋食屋さん」ですね。メニューには「ハンブルグステーキ」なんて書いてある。句の様子からして本店でないことはわかるが、どこの店だろうか。窓外では「落葉」しきり、卓上には「フォークたち」、すなわちフォークとスプーンとナイフが、小さな篭状の入れ物のなかで、静かに銀色の輝きを湛えている。これらをまとめて「フォークたち」と詠んだのは、フォークが「つばめ」の羽根を連想させたからだろう。スプーンやナイフでは、とても「つばめ」のようには飛びそうもない。「落葉」の季節に「つばめ」を感じる……。他愛ない連想といえばそれまでだけれど、注文した料理を待っている間に、ふっとそんなことを空想できる作者の感受性がほほ笑ましい。よいセンスだ。作者は二十代。「つばめグリル」といえば十数年も前の新宿店で、友人四人とたわむれに約束したことがあった。十年後の同じ日に、おたがいがどんな境遇にあるとしても、生きていたら四人でここで会おう、と。が、十年後の当日近くになり、私は当時買いたてのMacに記憶させていたので思い出したのだが、あとの三人は覚えていなかった。もう、それぞれにすっかり疎遠になっていた。会わなかった。掲句を読んで、懐かしくも思い出された「つばめグリル」である。「俳句」(2001年12月号)所載。(清水哲男)




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