今月三度目の前橋。五十人ほどで句会をやろうってんだから、無謀かな。佳句あれば紹介します。




2001ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112001

 焚火爆ズ中ニ軍律読ミ上ゲシ

                           新海あぐり

語は「焚火(たきび)」で冬。いまはダイオキシンが何とやらで、焚火もままならない。イヤな世の中です。ところで、こういう句に私は弱い。いざ、出陣である。火は人の闘争心を掻きたてる。寒いからだけではなくて、ばんばんと火勢を強めることで士気が鼓舞される。だんだん、みんなの目がギラギラしてくる。そこでやおら首領格が、しずかに諭すように「軍律(ぐんりつ)」を読み上げる。戦闘に際しての心構えは簡単にすませ、後は戦いに無関係な者への配慮であるとか、裏切り者への対処法であるとかと、かつての中国赤軍もかくやと思わせるような「仁義」が諄々と説かれていくのだ。焚火が爆ぜてむせ返るのだが、寂として声無し。そのうちに、闘争心は次第に冷たくも逆上する青い炎のように変化していく。落ち着いてくる。「秩父困民党」に取材した連作の一句であるが、片仮名を使って(「軍律」表記に通じて)、見事に蹶起する直前の農民の雰囲気を写している。かつての私も、身をもって似たような場面にいたことがある。このことについて知る人は少ないと思っていたら、ずっと後になって、長崎浩が「日本読書新聞」に書いた「評価」を読むことになった。でも、焚火は暢気なほうがよいに決まっている。♪たき火だ たき火だ おちばたき。巽聖歌の詩のほうが、天と地ほどによいに決まっている。作曲者の渡辺茂は、娘が小学生のときの先生だった。お元気でしょうか。『悲しみの庭』(2001)所収。(清水哲男)


November 16112001

 外套を脱げば一家のお母さん

                           八木忠栄

コートの季節。「外套(がいとう)」はもはや古語と言ってよいだろうが、コートとはちょっとニュアンスが違うと思う。コートは薄手であり、外套は厚手でモコモコしているイメージだ。いずれにしても外出着には変わりなく、それを来ているときは他所行きの顔である。妻が、外出から帰ってきた。もう夕食の時間なのだろう。部屋に入ってきたときにはまだ外套を着たままなので、やはり少し他所行きの顔を残している。子供らが「おなか空いたよお」と声をあげると、「はいはい、ちょっと待っててね」と彼女は外套を脱ぐ。途端に他所行きの顔は消え、ふだんの「お母さん」の顔に戻った。早速、台所でなにやらゴトゴトやっている。すっかり「一家のお母さん」に変身している。べつに何がどうということでもないけれど、一家がホッとする時間が戻ってきたわけだ。そこで作者は、いつもの調子でぶっきらぼうに注文をつけたりする。「心憂し人参辛く煮ておくれ」などと……。まっこと、「お母さん」は太陽なんだね。そこへいくと「お父さん」なんて生き物は、単に「お父さん」にすぎないのであって、外套を脱ごうが脱ぐまいが、一家をホッとさせるようなパワーはない。やれやれ、である。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


November 15112001

 投網打つごとくに風の川芒

                           友岡子郷

語は「芒(すすき)」で秋。別名は「萱(かや)」である。作者は、川原で「芒」が風になびく様子を見ている。そしてふっと、まるで誰かが「投網(とあみ)」を打っている光景のようだと思った。それだけの句であるが、この「それだけ」にとどめているところに、私は逆に魅かれる。昔の流行歌の「♪おれは河原の枯れススキ……」ではないけれど、とかくこのような風景を句にしようとすると、人は感情移入に走りがちになる。「さみしい」とか「わびしい」とかの感情を詠み込まないと、句がおさまらぬ気がするものだ。それを、からりと眼前の風景のありようだけにとどめた。言われてみれば、打たれる「投網」の細かい網の目と、群生する「芒」が揺れて生ずる斜のかかったような様子とは、よく符合する。この光景を少しフォーカスを甘くしてムービーに撮り、掲句を白い文字で打ち抜けば、ぴったりと響きあうにちがいない。俳句を読みはじめてから思っていることだが、風景を風景のままに詠みきることは非常に難しい。つまり写生の難しさになるわけだが、その意味で、掲句は成功した部類の作品ではあるまいか。むろん「投網打つごとくに」の比喩が効いているかどうかにおいて、意見はわかれるところだろう。一見地味で平凡にすら感じられる比喩だが、なかなかどうして力のこもった着想だと思う。『椰子』('99アンソロジー)所載。(清水哲男)




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