いつの間にやら商店街はクリスマスムード。店主たちは「売れない」とこぼしつつ飾る。がんばれ。




2001ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16112001

 外套を脱げば一家のお母さん

                           八木忠栄

コートの季節。「外套(がいとう)」はもはや古語と言ってよいだろうが、コートとはちょっとニュアンスが違うと思う。コートは薄手であり、外套は厚手でモコモコしているイメージだ。いずれにしても外出着には変わりなく、それを来ているときは他所行きの顔である。妻が、外出から帰ってきた。もう夕食の時間なのだろう。部屋に入ってきたときにはまだ外套を着たままなので、やはり少し他所行きの顔を残している。子供らが「おなか空いたよお」と声をあげると、「はいはい、ちょっと待っててね」と彼女は外套を脱ぐ。途端に他所行きの顔は消え、ふだんの「お母さん」の顔に戻った。早速、台所でなにやらゴトゴトやっている。すっかり「一家のお母さん」に変身している。べつに何がどうということでもないけれど、一家がホッとする時間が戻ってきたわけだ。そこで作者は、いつもの調子でぶっきらぼうに注文をつけたりする。「心憂し人参辛く煮ておくれ」などと……。まっこと、「お母さん」は太陽なんだね。そこへいくと「お父さん」なんて生き物は、単に「お父さん」にすぎないのであって、外套を脱ごうが脱ぐまいが、一家をホッとさせるようなパワーはない。やれやれ、である。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


November 15112001

 投網打つごとくに風の川芒

                           友岡子郷

語は「芒(すすき)」で秋。別名は「萱(かや)」である。作者は、川原で「芒」が風になびく様子を見ている。そしてふっと、まるで誰かが「投網(とあみ)」を打っている光景のようだと思った。それだけの句であるが、この「それだけ」にとどめているところに、私は逆に魅かれる。昔の流行歌の「♪おれは河原の枯れススキ……」ではないけれど、とかくこのような風景を句にしようとすると、人は感情移入に走りがちになる。「さみしい」とか「わびしい」とかの感情を詠み込まないと、句がおさまらぬ気がするものだ。それを、からりと眼前の風景のありようだけにとどめた。言われてみれば、打たれる「投網」の細かい網の目と、群生する「芒」が揺れて生ずる斜のかかったような様子とは、よく符合する。この光景を少しフォーカスを甘くしてムービーに撮り、掲句を白い文字で打ち抜けば、ぴったりと響きあうにちがいない。俳句を読みはじめてから思っていることだが、風景を風景のままに詠みきることは非常に難しい。つまり写生の難しさになるわけだが、その意味で、掲句は成功した部類の作品ではあるまいか。むろん「投網打つごとくに」の比喩が効いているかどうかにおいて、意見はわかれるところだろう。一見地味で平凡にすら感じられる比喩だが、なかなかどうして力のこもった着想だと思う。『椰子』('99アンソロジー)所載。(清水哲男)


November 14112001

 戸を立てし吾が家を見たり夕落葉

                           永井龍男

方帰宅すると、まだ明るいのに既に雨戸が立てられていた。家人が留守をするので、きちんと戸締まりをしてから出かけていったのだ。むろん作者はそのことを承知しているのだが、いつもとは違う家の様子に思わず足を止めて、しばし眺め入っている。「吾が家」ながら、どこか自分を受け入れぬようなよそよそしい感じなのだ。なんだか「吾が家」が、さながら異次元の存在のようにも写ってくる。ときおり舞い落ちてくる木の葉の風情もうそ寒く、作者はやおらポケットに鍵を探す……。「見たり」といういささか大仰な表現が、よく効いている。こんなときでもなければ、自分の家をわざわざ「見たり」と強調する感情はわいてこない。つまるところ、この淡い寂寥感は、立てられた雨戸によって象徴される家人の不在から来ている。中に誰も人がいない家は、それこそ大仰に言えば、家とは言えないのだ。人が存在してこそ、家が家として機能するわけで、あるいは人の暮らす家として安定するのであって、そのことを作者はさりげなくも鮮やかに視覚から捉えてみせている。形容矛盾かもしれないが、淡くも鋭い感覚の句として印象に残る。(清水哲男)




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