「抒情文芸」二十五周年記念の会。文芸投稿誌で残っているのは本誌のみ。俳句選者は三橋敏雄だ。




2001ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102001

 日暮れは遊べ大きな栗の木の下で

                           水野 麗

畑ではなくて、自生している「栗の木」のある山地は、昼なお暗いのが常だろう。「夕暮れ」ともなれば、なおさらである。子供らよ、そんな「木の下」で「遊べ」と作者は言う。「いやだよ」と、子供の頃の私だったら尻込みしたはずだ。作者のイメージの先には、遊びに行った子は二度と人里には戻れなくなるという、民話的なシチュエーションがありそうだ。怖い句である。そして掲句は、ひところは大学生にまでも歌われた「大きな栗の木の下で」という歌を踏まえていることも明白だ。底抜けにというか、痴呆的なほどに明るい歌である。だから、余計に怖い句と写る。歌いながら、無邪気に夢中で時を忘れて遊んでいるうちに、みんなが神隠しにあったように忽然と消えてしまう。それを、作者は望んでいるのだから……。邪悪な心からというのではなく、山の持つ霊的な魔力を間接的に示唆しようとした句ではなかろうか。ちなみに歌の「大きな栗の木の下で」の出自については、川崎洋『大人のための教科書の歌』(1998・いそっぷ社)に、こうある。「終戦後、進駐軍の兵士たちが日本に持ってきたものを、聞き伝えて歌い出したという。NHKテレビで『うたのおじさん』友竹正則が遊びの動作をつけて放送したのが広まるきっかけに。教科書には昭和40年が最初の登場で、一年生の教科書を中心に平成7年まで掲載された」。残念ながら、アメリカの栗の木は見たことがない。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


October 19102001

 籾殻焼母に呼ばれて日暮なり

                           太田土男

語は「籾(もみ)」で秋。籾摺り(もみすり)をした後に残った籾殻(もみがら)は、戸外で焼く。勢いよくは焼けずに、じわじわと焼けていく。昼も夜も、くすぶりつづける。明るい間は炎も見えないが、暗くなってくると焼けて黒くなった籾殻の奥に、赤く熾火(おきび)のように見える。そこを棒で突いてやると、ぱっと火の粉が舞い上がる。遊びというほどのことでもなく、たしかに子供らは吸い寄せられるように集まり、やがて母親に呼ばれて散っていった。散るときに、はじめて「夕暮なり」の実感が湧く。掲句は、ぴしゃりとそこを押さえている。私の記憶では、火に吸い寄せられたというよりも、そのほわんとした暖かさに足が向いたという感じである。焚き火のように、顔が痛いような熱さはない。田舎でも都会でも、昔は夕暮れが近づくと、句のように母親が遠くから子供を呼ぶ声がしたものだった。「ごはんだよーっ」。私などは「はーい」と答えておいてから、なおその場を去りがたくグズグズしていた。そんなときに、未練がましくも棒でつついたりするのだ。昔の多くの子供にとっては、テレビがあるわけじゃなし、我が家はいちばん退屈な場所だったと思う。ハックルベリー・フィンなんて奴に憧れたのも、むべなるかな。懐かしくはあるが、もうあんな時代に戻りたくはない。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


October 18102001

 バッタとぶアジアの空のうすみどり

                           坪内稔典

語は「バッタ(飛蝗・蝗虫)」で秋。キチキチと翅を鳴らしながら、バッタガ跳んでいる。細長く繊細な体で、思いがけないほど遠くに跳ぶのもいる。体の色は褐色のもいるが、この場合は「うすみどり」だろう。その「うすみどり」はまた空の色だと作者は言い、となれば「アジア」の大空の下を跳ぶバッタは、跳び上がるたびに空に溶けてしまうようである。この句の面白さは、実際にバッタが跳んでいる光景から、空とバッタだけを残して、それ以外の実景をすべて消去したところにあるのだと思う。日本の空なのに「アジアの空」と大きく張った視界が、そして「アジア」という底知れぬ深さを感じさせる言葉が、さながら巨大な消しゴムのように作用して、周囲の雑物や雑音を消去してしまっている。ふと気がつけば、また作者自身もいなくなっているようではないか。しいんとした「うすみどり」の広大な空間に、ときおり「バッタ」だけがキチキチと跳び上がっては消えるのである。それだけである。秋の野に在る心持ちを押し詰めていくと、こんなにも何もない世界が現れてくるのか……。ここで読者はもう一度、句に立ち戻ることになる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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