当ページのHTML文の文法をチェックしてみたら、200箇所以上に不適切な書き方があった。愕然。




2001ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102001

 白粉花の風のおちつく縄電車

                           河野南畦

語は「白粉花」で秋。普通は「おしろいばな」と読むが、句のように「おしろい」とも。「夕化粧」という情趣満点の別名も持つ。夕方から咲き、朝にはしぼんで落ちる。菖蒲あやに「おしろいが咲いて子供が育つ路地」があり、さりげない場所にさりげなく咲く花だ。我が家の近所にも毎年ちらほら咲いていたが、あまりにさりげないので、誰かが雑草といっしょに刈り取って捨ててしまったらしい。この秋は、見られなかった。掲句も路地の光景だろう。「縄電車」とは初耳だが、子供たちが長い縄やヒモを使って遊ぶ「電車ごっこ」のこと。♪ウンテンシュハキミダ、シャショウハボクダ、アトノヨニンハデンシャノオキャク、オノリハオハヤクネガイマス。こんな歌もあったくらいで、全国的に盛んな遊びだったようだ。私にも、本物の電車など見られない田舎で遊んだ記憶がある。学齢前の小さい子は、お客専門にした。平凡な夕暮れの平凡な路地での平凡な光景。なんでもない句だけれど、「風のおちつく」は、作者の心もまたこの光景に「おちつく」ということだろう。だから、読者の心も「おちつく」のである。いまの子供らはもはや「電車ごっこ」など知らないのかもしれない。いつの頃からか、さっぱり見かけなくなってしまった。その意味では、遠い日の郷愁に誘われる句でもある。青柳志解樹編『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


October 15102001

 釣瓶落しとずるずる海に没る夕陽

                           寺井谷子

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日の暮れやすさを、釣瓶が井戸の中にまっすぐに落ちることに例えた言葉だ。井戸の底は、いつも夜のように暗い。落ちる釣瓶にしてみれば、あっという間に闇の世界に入るのだから、なかなかによくできた例えではある。しかし、実際の夕陽の沈み具合はどうだろうか。海岸で眺めている作者の頭には「釣瓶落し」の例えが入っているので、かなりの速さで「没る(「おちる」と読むのだろうか)」だろうと期待していたのだが、案に相違して「ずるずる」という感じでの落日であった。この句に目がとまったのは、私も「ずるずる」にやられたことがあるからだ。8ミリ映画に凝っていたころ、水平線に沈む太陽を完全に没するまで長回しで撮影しようとした。長回しといっても、フィルムは一巻で3分20秒しか回せない。日没時刻を調べていかなかったので、秋の日は「釣瓶落し」を頼りに、いい加減なタイミングで撮影をはじめたところ、まだ沈まないうちに3分20秒のタイムリミットが来てしまい、完璧に失敗。そのときに思ったことは、「釣瓶落し」の例えは山国での発想だろうということだった。つまり、秋になると太陽の高度が低くなるので、日差しが夏場よりも早く山々に遮られ、夕闇は当然それだけ早く訪れる。例えはそのことを強調して言っているのであって、べつに太陽の沈むスピードには関係がないわけだ。「速さ」と「早さ」の混同を、この季語は起こさせる。すなわち「釣瓶落し」は、山に囲まれた地域限定の季語と言ってよいだろう。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)


October 14102001

 爛々と昼の星見え菌生え

                           高浜虚子

後二年目(1947)の今日、十月十四日に小諸で詠まれた句。一読、萩原朔太郎の「竹」という詩を思い出した。「光る地面に竹が生え、……」。この詩で朔太郎は「まつしぐらに」勢いよく生えた竹の地下の根に、そして根の先に生えている繊毛に思いが行き、それらが「かすかにふるえ」ているイメージから、自分にとって「すべては青きほのほの幻影のみ」と内向している。勢いあるものに衰亡の影を、否応なく見てしまう朔太郎という人の感覚を代表する作品だ。対照的に、虚子は「菌(きのこ)」を生やしている。松茸でも椎茸でもない、名も無き雑茸だ。毒茸かもしれない。いずれにしても、この「菌」そのものがじめじめと陰気で、竹のように「まつしぐら」なイメージはない。朔太郎はいざ知らず、多くの人が内向する素材だろうが、ここで内向せずに面を上げて昂然と天をにらんだところが、いかにも虚子らしい。陰気な地を睥睨するかのように、天には昼間でも「星」が「爛々(らんらん)と」輝いているではないか。もとより「昼の星」が見えるというのは、朔太郎の「繊毛」と同様に幻想である。このときに「爛々と」輝いているのは、実は「昼の星」ではなくて、作者自身の眼光なのである。敗戦直後「菌」のように陰気で疲弊した社会にあって、何に対してというのでもないが「負けてたまるか」の気概がこめられている。以下、雑談。かつて山本健吉は、この星を「火星」だと言った。幻想だからどんな星でも構わないわけだが、正木ゆう子が天文に明るい知人に調べてもらった(参照「俳句研究」2001年10月号)ところでは、虚子に当日見える可能性のあった星としては土星しか考えられないそうである。「昼の星」は「視力がよければ見えることはあるし、そうでなくても井戸の底からとかジャングルの中からとか、つまり視界を限れば見えるだろうという返事」とも。『六百五十句』(1955)所収。(清水哲男)




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