「日本人も数十万は死ぬだろう」とビンラディン氏。単なる恫喝と思えないところが、この戦争。




2001ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102001

 子を走らす運動会後の線の上

                           矢島渚男

ちんと調べたわけではないが、現代の外国には全校生徒が一同に会して行う「運動会」はないようだ。日本では明治七年(1874年)に、海軍兵学寮、札幌農学校、東京帝国大学などの高等教育機関で、外国人教師の指導ではじめられたというから、原形はヨーロッパの学校にあったのかもしれない。作者は、まだ学齢以前の我が子と運動会を見に行き、終わった後で「線の上」を走らせている。よく目にする光景だ。この子もこの学校の校庭のこの「線の上」を、やがて走る日が来るんだという親の思いが伝わってくる。どうかしっかり走ってくれるようにと、無邪気に走る我が子を見つめている。近い将来に備えての予行演習をさせている気持ちも、なくはない。運動会を運動会らしく演出する方法はいろいろあるが、この白い「線」もその一つだ。何本かの白線が、校庭の日常性を非日常性へと変換する。地面に引かれた単なる白線が、空間全体をも違った雰囲気に染め換えてしまうのである。この白線がスタート地点とゴール地点、そしてその間の道筋を明示するものだからだろう。こんな白線は、日常的には存在できない。同じような句に、平畑静塔の「運動会跡を島の子かけまはる」があるけれど、「跡」よりも「線」に着目した作者の感覚のほうが鋭いと思った。さて、蛇足。私が子供だったころの運動会は、村祭みたいなものだった。男たちは、酒盛りをしながら見物してたっけ。それが日常だと思ってたのは主役の我ら子供だけで、農繁期を過ぎた男たちには非日常を楽しむ絶好の場だったというわけだ。娯楽に乏しい時代だった。『采微』(1973)所収。(清水哲男)


October 07102001

 男は桃女は葡萄えらびけり

                           大住日呂姿

っはっは、コイツはいいや。愉快なり。ナンセンス句とでも言うべきか。無内容だが、その無内容に誘いこむ手つきが傑作だ。縦書きで読んだほうがよくわかると思うが、「男は桃」と出て「女は葡萄」と継ぐ。ここで読者を、いったん立ち止まらせようという寸法だ。読み下しながら「ん?、どういうことかな」「『桃女』かもしれないな」「何の比喩かな」などと、読者の頭のなかでは、いろいろな想像が働きはじめる。いやでも、そこで一呼吸か二呼吸かを置かされてしまう。で、下五にはしれっと平仮名で「えらびけり」と来た。ここに「選びけり」と漢字が混じると、効果はない。「男」「桃女」「葡萄」といっしょに、最初から「選」も目に入ってしまうからだ。また縦書きのほうが、平仮名の効果をあげるためには、句全体が目に入りにくいので有効だと思う。とにかく「やられた」というか「こんにゃろう」というか、ここで読者のせっかくの想像世界は実に見事に裏切られることになる。何故こんなメにあうのかというと、性と果物の取り合わせはしばしば何かの暗喩として用いられることを、私たちが知っているからだろう。だから、つい想像力をたくましくしたくもなるのだ。が、そんな教養やら常識やらの踏み台を、いとも簡単にすっと外されたので、コロっとこけちゃったというわけ。今日もいい天気。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


October 06102001

 人なぜか生国を聞く赤のまま

                           大牧 広

が家に遊びに来たドイツ人が、しきりに首をひねっていた。日本人は、なぜ他人の年齢のことを聞くのか。たいていの初対面の人が聞くのだという。「べつに何歳だっていいじゃないか」。「そりゃね、たぶん話題の糸口をみつけたいからだよ」と、私。そういえば、外国人から年齢を尋ねられた覚えはない。逆に、こちらから何歳くらいに見えるかと聞いたことはある。掲句のように、また私たちは相手の「生国(しょうごく)」をよく「聞く」ようだ。とくに意識して聞くことはあまりなく、なんとなく聞いてしまう。やはり「話の接ぎ穂」を探すためではなかろうか。「生国」がたまたま同じだったりすると故郷談義に花を咲かせることができるし、違ったとしても、旅行などで訪れたことがあれば話はつづく。「年齢」や「生国」の話題は、要するに当たり障りなくその場をやり過ごすための方便なのだ。そのあたりが、とくに理屈っぽい話の好きなドイツ人には解せないのだろう。この句の作者は「『生国』なんて、どうでもいいじゃないか」と言っているのではない。作者自身が聞くことも含めて、「なぜかなあ」と思っているだけだ。目に写っているのは、北海道から九州まで、どこの路傍で咲いても同じ風情の「赤のまま(犬蓼)」。人だって同じようなものなのになあ、と。『午後』所収。(清水哲男)




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