♪夕焼け小焼けで日が暮れない 山のお寺の鐘鳴らない 戦争なかなか終らない 烏もお家へ帰れない。




2001年9月19日の句(前日までの二句を含む)

September 1992001

 乙女座の男集まれ花野の天

                           原子公平

とえば、野村泊月に「大阿蘇の浮びいでたる花野かな」がある。「花野(はなの)」は秋の花が咲きみちた野を言うが、本義はこのように広々とした野や高原を指している。花々が澄んだ光のなかで揺れ、まことに明るく広大な野だ。が、そこにはどことなく秋ゆえの淋しい感じも漂っている。「乙女座の男」である作者(九月十四日生まれ)は、そんな高原に来ている。「天」は都会では見られない広々とした空であり、抜けるような青さを湛えていて、上天気なのだ。身も心も晴れ晴れとした上機嫌が、思わずも叫ばせた一句だろう。日ごろから何となく「乙女座の男」であることにひっかかっていた気持ちが、ここ「花野」に立つうちに解き放たれた。「花」と言えば「乙女」じゃないか。と、平凡な連想が「乙女座の男」を「みんな」集めたら愉快だろうなという空想につながった。「天」の意識は、もうこの世にはいない男たちへの呼びかけも含んでいるのかもしれない。では、ここに「みんな」を集めたらなぜ愉快なのか……。などと、あまり理屈をこねて鑑賞すると面白くない句になってしまう。字面だけを追うとよくわからないところはあるが、作者の上機嫌はとてもよく伝わってくる。作者の爽やかな気持ちの良さがわかれば、それでよいのではないか。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


September 1892001

 すずなりの茱萸をかざして通りけり

                           若林いち子

だちょっと「茱萸(ぐみ)」の熟れる季節には早いだろう。霜の降りるころになると、実の赤さが増す。その頃の情景だ。かつての山の子としては、一読「わあっ、なんと豪勢な」と声をあげたくなるような句である。真っ赤な実が「すずなりに」なった大枝を、これ見よがしにサワサワと「かざして」通る人。そこらへんにいくらでも茱萸の木は自生していたが、このような「大物」に出会うことは、めったになかった。だから、作者とともに私もまた、通る人をただうらやましく見つめるだけである。食べたい欲望よりも、所有欲をかきたてられるのだ。柿でも栗でも、あるいはアケビなどでも、野の物に対する気持ちはみな同じように働いていた。そういうことを思い出した。ところで、当歳時記が定本としている角川版歳時記では「茱萸」を秋としているが、厳密に言うと「茱萸」は季語ではない。「茱萸」という名前はグミ科グミ属の総称だからだ。冬をのぞいた三季に、種類の異なったそれぞれの「茱萸」がある。つまり、単に「茱萸」という名前で特定できる植物は存在しないわけだ。したがって、もっともポピュラーなこの季節のものは「秋茱萸」と言い習わしてきた。揚句の情景から推察して、読者はこの「茱萸」を「秋茱萸」と判断することになるのである。『新歳時記・秋』(1989)所載。(清水哲男)


September 1792001

 茹栗を食べて世帯の言葉かな

                           草間時彦

表を突かれた。言われてみれば、なるほど家族間だけで使う「世帯の言葉」というものがある。家族で「茹栗(ゆでぐり・うでぐり)」を食べながら、作者がどういう言葉を口にしたのかはわからない。が、その言葉は、およそ他人の前では使わない(使えない)ものだった。他人には意味不明に聞こえるような言葉か、あるいは聞かれて気恥ずかしくなるような言葉か。そのことにハッと気がついて、すうっと句になった。栗を茹でるのは、焼いたりするのとはちがって、極めて家庭的な行為なので、「世帯の言葉」に抵抗なくつながっていく。さて、この「世帯の言葉」に対するのが「世間の言葉」だろう。私たちはほとんど無意識のうちに使い分けているが、たまに両者がぶつかりあう現場に遭遇することがある。たとえば、客に招かれたときなどがそうだ。このときに招かれた客は「世間」であり、招いた側は「世帯」である。客は当然「世間の言葉」を使うわけだが、招いた側の家族は客には「世間」で応対し、家族同士では「世帯」で応接しなければならない。「世間」に出たことのない子供でもいると、使い分けが明らかにこんがらがってくる。客には意味不明の言葉を使わざるをえなくなって、照れ笑いを浮かべたりする。そんなシチュエーションではないのに、揚句の作者は「世帯の言葉」に気がついた。「世間」では幼児言葉とされているそれでも使ったのだろうか。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)




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