穂高の山葵は有名。清冽な水がないと育たない。故郷山口にも山葵が自生していたのを思い出した。




2001ソスN8ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2882001

 出穂の香のはげしく来るや閨の闇

                           波多野爽波

会で、穂高(ほたか)町(長野県南安曇郡)を訪れた。敗戦までは陸軍の練兵場として使われ、戦後になって開拓された土地だという。いかにも新興の田園地帯らしく、見渡すかぎりの水田のなかを走る道はまっすぐだ。有名な碌山美術館や山葵田などいろいろと見物して歩いたが、いちばん印象深かったのは黄色く色づきはじめた稲の発する香りだった。農村に育った私だが、すっかり忘れていた濃密な香りである。何度も腹いっぱい吸い込んできた。これだけでも、出かけてきた甲斐があると思った。爽波はこのとき大阪市内に住んでいたから、やはり旅先での印象だろう。「閨(ねや)」は、寝室。「出穂(でほ)」のころはまだ暑いので、網戸だけを閉めた部屋で寝ていると、風に乗った「出穂の香」が、予想外の濃密さで流れ込んできた。むせびたくなるほどだ。もはや「閨の闇」全体がその香で満たされ、胸を圧してくるようである。こうなると、なかなか眠れそうにない……。都会生活に慣れた人が田舎に出かけると、ときとして思いがけないことに遭遇する例の一つだ。でも、作者はこのことを煩わしく思ったのではない。眠れずに闇の中で目を開けながら、一方で充実した自然とともにある自分の状態に満足している。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


August 2782001

 小刀や鉛筆を削り梨を剥く

                           正岡子規

くらいの世代ならば、すぐに肥後守(ひごのかみ)を思い出すはずである。刃渡り十センチ少々の「小刀(こがたな)」だ。折込式の柄は鉄製か真鍮製で「肥後守」と銘を切ってあり、鉛筆を削るための学用品だった。鉛筆削り器なんて洒落れた物はなかったから、誰もが携行していた。子規の時代にもあったのかと調べてみたが、わからない。そんな鉛筆を削るための道具で梨を剥いたというだけの句だが、妙にこの「小刀」が生々しく感じられる。洗濯機で薯を洗うのと同じことで、機能的には何の問題もないのだけれど、衛生観念上でひっかかるからである。奥さんに林檎を剥かせるときに、剥いた部分には絶対に手を触れさせなかったという泉鏡花が現場を見たとしたら、真っ青になって失神しかねないほどの不衛生さだ。でも、子規は「こんなこと平気だい」とバンカラを気取っているのではなく、いつしか不衛生に感応しなくなっている自分に、あらためて感じ入っているのだと思う。局面を違えれば、誰にでも似たようなことはあるのではなかろうか。習い性となっているので、自分では何とも思わない振るまいが、他人の目には奇異に写るということが……。子規は、そんな自分のありようの一つを発見してしまったということだ。子規二十九歳。腰痛がひどくなった年だが、まだ外出はできた。(清水哲男)


August 2682001

 夜霧ああそこより「ねえ」と歌謡曲

                           高柳重信

戦後一年目(1946年)の句。戦時の抑圧から解放されて、「歌謡曲」がさながらウンカのごとく涌いて出てきた時期だ。並木路子の「リンゴの歌」は前年だが、この年には岡晴夫「東京の花売り娘」、二葉あき子「別れても」、池真理子「愛のスゥイング」、田端義夫「かえり船」、奈良光枝・近江俊郎「悲しき竹笛」などがヒットした。これらの歌詞に「ねえ」はないと思うが、戦前からの歌謡曲の王道の一つにはマドロス物があり、とりあえず港や波止場に夜霧が立ちこめ、そこに悲恋をからませれば一丁上がりってなもんだった。実際の夜霧のなかで、作者は「そこより」聞こえてきたそんな「歌謡曲」を耳にして、「ああ」と言っている。この「ああ」は、これまた歌詞の決まり文句に掛けられてはいるが、それまで絵空事として聞いていた歌が、妙にリアリティを伴って聞こえてきたことへの感嘆詞だ。「ねえ」と女の甘えた声が、ぎくりとするほどに胸に染み込んできたのである。通俗的な抒情詞も、何かの拍子にこのように働く。その不思議を、不思議そうに捉えた佳句と言ってよい。ところで、最近は温暖化の影響からか、都会では深い夜霧も見られなくなった。この句自体も、戦後の深い霧の中から「ねえ」と呼びかけているような。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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