「穂高より帰宅」と、予定稿(笑)。トシをとると、疲れは翌々日に出る。医学的根拠ありや?




2001ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2782001

 小刀や鉛筆を削り梨を剥く

                           正岡子規

くらいの世代ならば、すぐに肥後守(ひごのかみ)を思い出すはずである。刃渡り十センチ少々の「小刀(こがたな)」だ。折込式の柄は鉄製か真鍮製で「肥後守」と銘を切ってあり、鉛筆を削るための学用品だった。鉛筆削り器なんて洒落れた物はなかったから、誰もが携行していた。子規の時代にもあったのかと調べてみたが、わからない。そんな鉛筆を削るための道具で梨を剥いたというだけの句だが、妙にこの「小刀」が生々しく感じられる。洗濯機で薯を洗うのと同じことで、機能的には何の問題もないのだけれど、衛生観念上でひっかかるからである。奥さんに林檎を剥かせるときに、剥いた部分には絶対に手を触れさせなかったという泉鏡花が現場を見たとしたら、真っ青になって失神しかねないほどの不衛生さだ。でも、子規は「こんなこと平気だい」とバンカラを気取っているのではなく、いつしか不衛生に感応しなくなっている自分に、あらためて感じ入っているのだと思う。局面を違えれば、誰にでも似たようなことはあるのではなかろうか。習い性となっているので、自分では何とも思わない振るまいが、他人の目には奇異に写るということが……。子規は、そんな自分のありようの一つを発見してしまったということだ。子規二十九歳。腰痛がひどくなった年だが、まだ外出はできた。(清水哲男)


August 2682001

 夜霧ああそこより「ねえ」と歌謡曲

                           高柳重信

戦後一年目(1946年)の句。戦時の抑圧から解放されて、「歌謡曲」がさながらウンカのごとく涌いて出てきた時期だ。並木路子の「リンゴの歌」は前年だが、この年には岡晴夫「東京の花売り娘」、二葉あき子「別れても」、池真理子「愛のスゥイング」、田端義夫「かえり船」、奈良光枝・近江俊郎「悲しき竹笛」などがヒットした。これらの歌詞に「ねえ」はないと思うが、戦前からの歌謡曲の王道の一つにはマドロス物があり、とりあえず港や波止場に夜霧が立ちこめ、そこに悲恋をからませれば一丁上がりってなもんだった。実際の夜霧のなかで、作者は「そこより」聞こえてきたそんな「歌謡曲」を耳にして、「ああ」と言っている。この「ああ」は、これまた歌詞の決まり文句に掛けられてはいるが、それまで絵空事として聞いていた歌が、妙にリアリティを伴って聞こえてきたことへの感嘆詞だ。「ねえ」と女の甘えた声が、ぎくりとするほどに胸に染み込んできたのである。通俗的な抒情詞も、何かの拍子にこのように働く。その不思議を、不思議そうに捉えた佳句と言ってよい。ところで、最近は温暖化の影響からか、都会では深い夜霧も見られなくなった。この句自体も、戦後の深い霧の中から「ねえ」と呼びかけているような。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


August 2582001

 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

                           西東三鬼

者の状況説明。「ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の二階の窓から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六、七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本の細君が肺病で死んでからは独り暮らしをしている」。「叫びて打ち落す」のだから、食べるためではないだろう。いまで言うストレス発散の一法か。そんなワシコフ氏の奇矯な振る舞いを、二階の窓から無表情で見下ろしている三鬼氏。両者の表情を思い合わせると、なんとなく可笑しい。と同時に、人間の根元的な寂しさがじわりと滲み出てくるような……。この後、砕け散った石榴(ざくろ)を、ワシコフ氏はどうしたろうか。そこまでは、三鬼氏の知ったことではない。彼の句に「俳句的なイロニックな把握はない」と評したのは山本健吉だったが、この句もストレートに状況を述べている。ストレートだから可笑しくも哀しいのであって、ひねったカーブで仕留めようとすると、これほどにワシコフ氏のありようは明確にならないだろう。要するに、三鬼の句は対象を可能な限り対象のままにあらしめること、そこに力が込められている。では、一般に言う写生派と同じ技法かということになるが、それとも違う。写生派の命は、多く切れ字などのひねり(カーブ)に関わっている。客観性を保つという意味では、実は三鬼句のほうがよほどクリーンなのである。『西東三鬼句集』(角川文庫・絶版)などに所収。(清水哲男)




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