気がついたら我が西東京の「日大三高」が準決勝に。でも「城東高」ほどに東京という感じはない。




2001ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082001

 とうすみはとぶよりとまること多き

                           富安風生

戦の年まで、東京の中野区鷺宮(現在の「若宮」)に住んでいた。当時の新興住宅地で、似たような形をした貸家がたくさんあり、我が家もそんな一軒を借りていた。近所にはまだあちこちに原っぱがあって、子供らには絶好の遊び場だった。そのころ(五歳くらいだったろう)に「とうすみ(糸蜻蛉)」を知った。夕方になると、空にはコウモリが乱舞し、赤とんぼも群れをなし、鬼やんまがすいすいと飛び交っていた。走り回っていたお兄ちゃんたちのお目当ては、むろん鬼やんまだ。思い出しても壮観であるが、一方で地べたに近い草の葉先などには「とうすみ」が静かにハネをたたんでとまっているのだった。しゃがんで見ていても、句の言うように、なかなか飛ばない。手を打って威かしても、動こうとはしない。子供心にも、なんて弱々しいトンボなんだろうと写り、つかまえるのがはばかられたほどだ。掲句の平仮名は、よくこのトンボの特性を伝えている。なお、多くの歳時記では夏の季語とされており、当歳時記でもそれに習うが、しかし風情としては初秋の少し寂しげな風景に似合うトンボである。それにしても最近はちっとも見かけないが、あのはかなげな様子からして、もしかしたら絶滅したのではないかと心配である。弱々しいと言えば、「おはぐろ(川蜻蛉)」もどうなっているのだろうか。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


August 1982001

 それぞれの窓に子がみえ夜は秋

                           小倉涌史

者は「夜は秋」と詠んでいるが、季語の分類としては「夜の秋」。秋の夜ではない。晩夏などに、どことなく秋めいた感じのする夜のことである。したがって、夏の季語。暦的にではなく、気分としてはちょうど今頃の季節だろう。団地かマンションか、たくさんの「窓」のある集合住宅を何気なく仰ぐと、風を入れるために開け放たれている「それぞれの窓」に、子供の姿が見える。全部の窓に見えるわけではないが、思いがけないほどに、あの窓にもこの窓にも見えたのである。子供が起きているのだから、まだ宵のうちだ。理屈を述べれば、なべて子供は活力の象徴だから、衰えていく夏の活力に抗するように「それぞれの窓」に元気がみなぎっていることを、作者は素朴に喜んでいる。理屈をはずせば「ああ、子供って素敵だなあ」であり、「家族っていいなあ」である。あえて「夜の秋」と取り澄ました歳時記的な措辞を避け、思わずもという感じで「夜は秋」とつぶやいたところに、作者の静かな染み入るような喜びの情感が浮かび上がった。やがて、本格的な秋がやってくる。そうなると、「それぞれの窓」は固く閉められ、しかもカーテンで覆われて、子供らの姿も消えてしまう。その予感を孕んでいるからこそ、なおのこと句が生きてくるのだ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


August 1882001

 ひぐらしや尿意ほのかに目覚めけり

                           正木ゆう子

の「目覚め」の時は、朝なのか夕刻なのか。早朝にも鳴く「ひぐらし(蜩)」だから、ちょっと戸惑う。「尿意ほのかに」からすると、少し遅い昼寝からの目覚めと解するほうが素直かなと思った。つまり、ほのかな尿意で目覚めるほどの浅い眠りというわけだ。そんな眠りから覚めて、覚醒してゆく意識のなかに、まず入ってきたのは「ひぐらし」の声だった。もう、こんな時間。もう、こんな季節。ほのかな寂寥感が、ほのかな尿意のように、身体のなかの遠くのほうから滲むように忍び寄ってくる。寂寥を心理的にではなく、体感的にとらえることで、説得力のある一句となった。人はこのようにして、不意に謂われのない寂しさに囚われることがある。しかもその寂しさは悲しみに通じるのではなく、むしろ心身の充実感につながっていくような……。寂しさもまた、人が生きていくためには欠かせない感情の一つということだろう。作者はそのあたりの機微にとても敏感な人らしく、次のような佳句もある。「双腕はさびしき岬百合を抱く」。この句にも、しっかりとした体感が込められているので、一見大げさかと思える措辞が少しも気にならない。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)




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