台風が近づくと昼間から雨戸を閉めて夜みたいだった。「立てこもる」ってのは、ああいうことだ。




2001ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982001

 それぞれの窓に子がみえ夜は秋

                           小倉涌史

者は「夜は秋」と詠んでいるが、季語の分類としては「夜の秋」。秋の夜ではない。晩夏などに、どことなく秋めいた感じのする夜のことである。したがって、夏の季語。暦的にではなく、気分としてはちょうど今頃の季節だろう。団地かマンションか、たくさんの「窓」のある集合住宅を何気なく仰ぐと、風を入れるために開け放たれている「それぞれの窓」に、子供の姿が見える。全部の窓に見えるわけではないが、思いがけないほどに、あの窓にもこの窓にも見えたのである。子供が起きているのだから、まだ宵のうちだ。理屈を述べれば、なべて子供は活力の象徴だから、衰えていく夏の活力に抗するように「それぞれの窓」に元気がみなぎっていることを、作者は素朴に喜んでいる。理屈をはずせば「ああ、子供って素敵だなあ」であり、「家族っていいなあ」である。あえて「夜の秋」と取り澄ました歳時記的な措辞を避け、思わずもという感じで「夜は秋」とつぶやいたところに、作者の静かな染み入るような喜びの情感が浮かび上がった。やがて、本格的な秋がやってくる。そうなると、「それぞれの窓」は固く閉められ、しかもカーテンで覆われて、子供らの姿も消えてしまう。その予感を孕んでいるからこそ、なおのこと句が生きてくるのだ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


August 1882001

 ひぐらしや尿意ほのかに目覚めけり

                           正木ゆう子

の「目覚め」の時は、朝なのか夕刻なのか。早朝にも鳴く「ひぐらし(蜩)」だから、ちょっと戸惑う。「尿意ほのかに」からすると、少し遅い昼寝からの目覚めと解するほうが素直かなと思った。つまり、ほのかな尿意で目覚めるほどの浅い眠りというわけだ。そんな眠りから覚めて、覚醒してゆく意識のなかに、まず入ってきたのは「ひぐらし」の声だった。もう、こんな時間。もう、こんな季節。ほのかな寂寥感が、ほのかな尿意のように、身体のなかの遠くのほうから滲むように忍び寄ってくる。寂寥を心理的にではなく、体感的にとらえることで、説得力のある一句となった。人はこのようにして、不意に謂われのない寂しさに囚われることがある。しかもその寂しさは悲しみに通じるのではなく、むしろ心身の充実感につながっていくような……。寂しさもまた、人が生きていくためには欠かせない感情の一つということだろう。作者はそのあたりの機微にとても敏感な人らしく、次のような佳句もある。「双腕はさびしき岬百合を抱く」。この句にも、しっかりとした体感が込められているので、一見大げさかと思える措辞が少しも気にならない。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


August 1782001

 朝顔や締めあう首のあべこべに

                           増田まさみ

ちらかと言えば「朝顔」は夏の花だが、伝統的に秋の季語とされる。薬草として中国から渡ってきた植物で、万葉集にも出てくる。観賞用になったのは鎌倉時代以降からで、江戸時代に盛んになったというのが定説。観賞用の花は品種改良が重ねられるので、可憐で涼しげな姿をなんとか夏に登場さすべく改良されたのかもしれない。掲句は、その可憐で涼しげな花同士が「首」を絞めあっていると言うのである。お互いの蔓が、相手の花下の「首」にからみついている状態だ。人間同士の首の締め合いならば、正対しなければならない。が、朝顔は互いに「あべこべ」の方を向いて、すなわち素知らぬ顔で、互いにぎゅうぎゅうと締め上げあっているというわけだ。なあるほど……。ブラック・ユーモアの味がする。誰に聞いたのだったか、句を読んで、こんな話を思い出した。ある小学生の女の子が誕生パーティに、いつも自分をいじめるイヤな子も呼んだ。呼ばないと、後でどんな目に遭うかわからないからだ。女の子の母親が集まったみんなに「いつまでも仲良くしてね」と挨拶すると、いじめっ子がにこにこと「私たちシンユウだから、イッカイもケンカなんかしたことないんですよ」と応えた。母親からは見えない机の下で、当の女の子の膝をしっかりと抓(つね)りながら……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)




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