季節が移り変わる頃の選句は難しい。実はまだ「ひぐらし」を聞いていません。油蝉しきりの三鷹。




2001ソスN8ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1882001

 ひぐらしや尿意ほのかに目覚めけり

                           正木ゆう子

の「目覚め」の時は、朝なのか夕刻なのか。早朝にも鳴く「ひぐらし(蜩)」だから、ちょっと戸惑う。「尿意ほのかに」からすると、少し遅い昼寝からの目覚めと解するほうが素直かなと思った。つまり、ほのかな尿意で目覚めるほどの浅い眠りというわけだ。そんな眠りから覚めて、覚醒してゆく意識のなかに、まず入ってきたのは「ひぐらし」の声だった。もう、こんな時間。もう、こんな季節。ほのかな寂寥感が、ほのかな尿意のように、身体のなかの遠くのほうから滲むように忍び寄ってくる。寂寥を心理的にではなく、体感的にとらえることで、説得力のある一句となった。人はこのようにして、不意に謂われのない寂しさに囚われることがある。しかもその寂しさは悲しみに通じるのではなく、むしろ心身の充実感につながっていくような……。寂しさもまた、人が生きていくためには欠かせない感情の一つということだろう。作者はそのあたりの機微にとても敏感な人らしく、次のような佳句もある。「双腕はさびしき岬百合を抱く」。この句にも、しっかりとした体感が込められているので、一見大げさかと思える措辞が少しも気にならない。『悠 HARUKA』(1994)所収。(清水哲男)


August 1782001

 朝顔や締めあう首のあべこべに

                           増田まさみ

ちらかと言えば「朝顔」は夏の花だが、伝統的に秋の季語とされる。薬草として中国から渡ってきた植物で、万葉集にも出てくる。観賞用になったのは鎌倉時代以降からで、江戸時代に盛んになったというのが定説。観賞用の花は品種改良が重ねられるので、可憐で涼しげな姿をなんとか夏に登場さすべく改良されたのかもしれない。掲句は、その可憐で涼しげな花同士が「首」を絞めあっていると言うのである。お互いの蔓が、相手の花下の「首」にからみついている状態だ。人間同士の首の締め合いならば、正対しなければならない。が、朝顔は互いに「あべこべ」の方を向いて、すなわち素知らぬ顔で、互いにぎゅうぎゅうと締め上げあっているというわけだ。なあるほど……。ブラック・ユーモアの味がする。誰に聞いたのだったか、句を読んで、こんな話を思い出した。ある小学生の女の子が誕生パーティに、いつも自分をいじめるイヤな子も呼んだ。呼ばないと、後でどんな目に遭うかわからないからだ。女の子の母親が集まったみんなに「いつまでも仲良くしてね」と挨拶すると、いじめっ子がにこにこと「私たちシンユウだから、イッカイもケンカなんかしたことないんですよ」と応えた。母親からは見えない机の下で、当の女の子の膝をしっかりと抓(つね)りながら……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


August 1682001

 盆三日あまり短かし帰る刻

                           角川源義

え火から送り火までは、正三日間。はやくも送り火の刻限になってしまった。作者は次女(真理)の魂を迎え、いま送りだそうとしている。もう少し、一緒にいたい。いてやりたい。「でも、もう『帰る刻』なのだから……」と、みずからにあきらめの気持ちを言い含める表現に、逆縁の辛さが滲み出た。逆縁ではなくても、同様の気持ちで今日の夕刻を迎える人たちはたくさんいる。毎年、そのことを思うと、夕刻の光が常日頃とは色合いのちがう感じに写る。桂信子には「温みある流燈水へつきはなす」の一句。別れがたい辛さを断ち切るために、「温み(ぬくみ)ある」燈籠を、万感の思いを込めて一気に「つきはなす」のだ。私の故郷では、今宵盆踊りがあり、終了すると近所の川で燈籠流しが行われる。農作業の合間に、何日もかけて作った立派な精霊舟も流される。せっかくの燈篭や舟がひっかかったり転覆しないようにと、数人の若い衆が竹竿を持って川に入り、一つ一つを注意深く見守る。燈篭の灯火に、腰まで水につかった彼らの姿が闇のなかで明滅する。過疎の村だから、岸辺にいる大人のなかには明日は村を離れて都会に帰る人も多い。夜が明ければ、もう一つの別れが待っているのだ。『西行の日』所収。(清水哲男)




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